青柳いづみこ「ピアニストが見たピアニスト」

 青柳いづみこ「ピアニストが見たピアニスト」(中公文庫)がとても面白い。世界的なピアニストの評伝で、6人のピアニストが取り上げられている。リヒテルミケランジェリアルゲリッチ、フランソワ、バルビゼ、ハイドシェックだ。
 青柳は時々リサイタルもするプロのピアニストにしてドビュッシー研究で博士号を取っている。またエッセイストクラブ賞を受賞している名エッセイストだ。ピアノの演奏に関する技術的な批評ができ、それを的確に表現することができる正に最適な音楽評論家であろう。しかも祖父はフランス文学者の青柳瑞穂、ジイドなどを訳しているのではなかったか。青柳瑞穂は、さらに阿佐ヶ谷文化村という文学者たちの私的な交流会のまとめ役でもあった。青柳いづみこに文筆の才が伝わって当然だろう。
 彼女はこの6人のピアニストに対して資料を読み込み、CDやビデオで演奏を聴き、もちろん実演に接した場合は細部までも聴き込み、動作も詳しく注意して見ている。エピソードも満載、演奏評も充実している。言うことがない。

 アルゲリッチは、ノクターンなどカンティレーナの部分ではベルカント奏法を使う。ひとつの音を指先で保持しながら次の指の準備をし、音と音の間にすきまができないように慎重に音をつないでいく。こちらは「習った」ほうだ。しかし、速い音型を弾くときは、彼女のオリジナルの「ひっかき」奏法が全面に出てくる。「曲げた指」を使うポリーニは、速い音型でも一度根元の関節で止め、次の指につなぐ作業を行なうのだが、アルゲリッチは手前にひっかくので、動作を次々にくり出すことができる。おまけに彼女は、ある音節を弾くとき、腕を上から落として勢いをつけ、すべての音をまとめて弾いてしまう。この「ひっかく」「落とす」「まとめて弾く」で、彼女の異常なスピードが可能になるのだ。

 たとえば、コンセルトヘボウでのライブが残されている(アルゲリッチの)プロコフィエフ『戦争ソナタ』をグールドのCDと比較してみると、アプローチの違いは明らかである。無機質な第1主題ではじまり、さまざまに解体されたのち濃艶な第2主題が提示され、やがて二つの主題が組み合わされる第1楽章。分析マニアのグールドの手にかかると、この過程が手にとるように分かる。アルゲリッチの演奏では、第1主題の輪郭はあまり明確に描かれず、より彼女のテンペラメントに適した第2主題ばかりが鮮やかに浮かびあがってくる。「元祖野獣派」のフィナーレでは、彼女のほうに圧倒的に軍配が上がるけれども。
 リストの『ソナタ』をポリーニと聴き比べたときも、同じような印象を受けた。
 アルゲリッチの演奏は刹那的だ。その場その場では興奮するが、前に何があったのか忘れてしまう。主題の造形はポリーニにかなわない。アルゲリッチで印象に残るのは、主題よりもそれを装飾するアクセサリーのほうだ。虹のように輝く変幻自在のトリルは、タンホイザーを誘惑するヴェヌスもかくやと思わせる妖しい魅力を放っている。

 ついでサンソン・フランソワについて、

 ショパンの練習曲といえば、72年録音のポリーニ盤が決定版と言われる。たしかに、「3度」「6度」こと作品25-6番、8番のような重音の精度はすばらしいし、「木枯らし」や「オクターヴ」での腕っぷしの強さもポリーニのほうがはるかに上だろう。しかし、作品10の12曲は、どの観点から見てもフランソワに軍配が上がる。
 第1番。フランソワの演奏は、まずバスがしっかりしている。そのバスがメロディとして歌われているし、和声の根音としてもきちんと機能している。アルペジオの練習曲は、全体を大きなコラールとして考えることができる。ポリーニの演奏では、どの和声も均等すぎて、進行が「見えて」こない。(中略)
 第5番「黒鍵」。フランソワ盤は、何と軽やかでチャーミングな演奏だろう。ショパンがすべての指を黒鍵にのせるよう考案した、このちょっとしたトリッキーな練習曲は、実は、フランソワのように指を平たく伸ばした奏法にふさわしい。晩年のコルトーが、他の練習曲はぼろぼろだったのにこの「黒鍵」だけは見事に弾いたというエピソードもある。ポリーニのように指を曲げた弾き方では、大変な努力を要するだろう。その努力が、音楽を硬直したものにしている。

 ピエール・バルビゼに対してはきわめて好意的な紹介だ。バルビゼはマルセイユ音楽院の院長で、青柳はそこでバルビゼに学んだのだった。
 青柳は日本では安川加壽子に学んでいる。安川についての評伝『翼のはえた指』で吉田秀和賞を受賞している。これを機に青柳いづみこの本をまとめて読んでみようと思った。
 最後にちょっとだけ不満を言えば、取り上げられているピアニストが少ないことだ。グールドやグルダ、ギレリス、ルビンシュタイン、アラウ、ブレンデル、何よりホロヴィッツについて、書いてほしかった。