野見山暁治さんが振り込め詐欺の被害に遭ったこと(2)

 早速きのうの続きを。

 翌朝11時近く、イチは又しても電話をかけてきたが、おろおろと一向に容量をえん。昨日たしかめた弁護士に電話してみると、相手は、あと300万よこせ、今日の日まで焦らしたのは怪しからんの一点張りで、これ以上、手の打ちようもないと、妙に静かな口調で語る。
 消したはずの火焔が今またどっと燃えさかり、昨日からの熱気にぼくも炙られ、再び印鑑、通帳と慌てているところへ、アシスタントが出勤してきた。
 焦げついたぼくの顔に気付いたものか、彼女はどうしてもぼくを放さない。それからそれからと、事の成りゆきを促されてゆくうちに、なんとも図式どおりの詐欺の手口が浮びあがった。
 僕はイチのケータイに電話を入れ、おい目を覚せ、と叫んだ。お前、弁護士に騙されてるぞ。イチはしかし、あとの300万しか頭にないらしく、子供のように泣きつく。いい加減にしろ、附き合えん。ぼくは電話を切った。
 イチと名乗る男もグルじゃないかとアシスタントは疑う。昔からの友人を間違える訳はない。ぼくは電話した。出ない。弁護士に電話してみると、この番号も掻き消えている。何ということだろう。あのめらめらと燃えた処刑は、この世のものではなかったのか。
 200万はおろか、下手をすれば500万、そんな捨てるような金があるんですか、と知人は呆れる。誰が聞いても呆れる。しかし騙されるとはそういうことだ。
 闇の声はイチだとは名乗っていない。いきなりぼくがそう思い込んだ。思い込むと、もう他の憶測は閉ざされる。あとはぼくと偽イチとの合作で突き進んでいっただけだ。
 闇の住人と二日間、しゃべり合ったことでぼくはこの世と同じ仕組みの裏社会があることを知った。情容赦のない野盗の血を受けつぎながら、蔵を破り小判の箱を担ぎだす姿を彼らは決して見せない。
 誰も殺めない。誰も脅さない。声だけがぼくに向って泣きつく。いきなりの大金、冗談じゃない。お前の不始末、なんで俺が尻ぬぐいしなきゃならん。
 少しずつイチの声はかすれ、いきなり炎に包まれた囚人をぼくは見る。火はぼくの体に燃え移る。身ぐるみ剥がれても仕方のないこの筋書きというか、舌先三寸が醸す臨場感。これにまさる画面をぼくは今までに描いたことがあるだろうか。
 これほどの役者たちがあえて裏社会に住んでいるのは、実のところ、人を騙す歓び、なんじゃないか。表社会の水面に釣糸を垂らしての、ぼくとの一問一答、これ以上の愉悦はなかったろう。
 ワルどもの高笑いは、耳から放れない。騙し取られた金額で買えるものをアシスタントは並べたてて、繰返し口惜しがる。止めろ、金に余計な意味や感情を盛込むと、おかしな繁殖をする。
 正直いって、あの声の主がイチでないと分かったとき、ぼくは安堵した。もしイチの手に渡っていれば、ぼくと奴の間に厄介なしこり菌が発生する。だからこれはぼくの預金の中から、取敢えずは、その数字が消えただけの事件。いや恐ろしいのは、この素通りする危機感だ。やがて自分の命を奪われても気付かない被害が横行するのではないか。

「続アトリエ日記」では、「日経の竹ちゃんからFAXで、詐欺の原稿、ベタ賞め。嬉しかった。なにしろ膨大な取材費がかかっている」と書いている。どこまでも巧い人だ。

アトリエ日記 続

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