野見山暁治さんが振り込め詐欺の被害に遭ったこと(1)


 野見山暁治「続アトリエ日記」(清流出版)を読むと、2007年12月13日と14日の項に、旧友に頼まれてお金を振り込んだ話が語られている。最初200万円を振り込み、翌日また300万円を振り込みそうになってアシスタントに止められたという。
 そして翌年2008年3月4日の日記に、日経の日曜版に振り込め詐欺の原稿を書いたとあり、3月9日に掲載されたとある。その記事を探して読んだ。

 昼近く電話がかかってきた。今いいか? イチは図々しく気が小さい。いいも悪いも、ぼくは終日、アトリエの中を歩きまわっているだけだ。
 イチはしばらく口ごもり、今ほんとうにいいんだなと念をおし、困ったことになったと呻くような声になった。そんな小さな声では分からん、いったい何だと僕が焦れて、たたみかけると、どうやら小娘を孕ませた様子。
 以前から徒っぽく手を出す男だったが、性こりもないとみえる。まだ五ヶ月、堕ろすことにはしているが、向うの親が訴えると騒ぎだして、という今までのいきさつを、イチの声はあまりにもか細くて、いらいらするほどの時間がかかった。
 以前にも似たようなことで、ぼくは身替りに病院へ行かされたことがある。しかし今って孕ませたりも出来るのか。美校の同級生だから86歳、これはギネスものだ勿体ない、思いとどまれ。ぼくは危うく励ましそうになった。
 弁護士に頼んで示談に持ち込んだが、手術代、慰謝料、何もかもひっくるめて、かなりの費用がかかる。なんとか力を貸してもらえないか。こんなこと頼める義理ではないがと、とぎれとぎれの願いだか訴えだか、聞いているうちに腹がたってきた。
 うちの奴にバレれば目茶目茶だ。裁判にでもなれば世間から弾き出されて、もう絵は描けん、誰にも言えん、うかつに頼めん、とうとう約束ぎりぎりの今日になって、とイチの声は掠れている。
 そうだろ、お前のカアちゃん怖いからな。他人の女房なのに、ぼくまでがゾッとしてきた。描きかけの120号を横目で見ながら、ぼくは受話器をじっと耳に当てていた。う・う・う、という低い呻きは断続的に伝わってくる。
 いきなり業火が拡がり、炙られているイチが見えた。俺しか救えない、今しかない。
 銀行の時計は2時を回っていた。ぼくは知らない宛名に向かって200万、振り込んだ。

 今日はここまで、明日に続く。