濡れ場の表現いろいろ

 私は以前「ねじめ正一『荒地の恋』を読んで、また猫山のこと」(2007年11月19日)に、ねじめ正一が書いた晩年の北村太郎の伝記で、北村が若い恋人阿子と知り合い「北村は合羽橋で買った専用の小鍋で上手に親子丼を作った。二人で向かい合って食べ、それから当然のように性交をおこなった。」と書いたことに不満を記した。「性交」という生硬な言葉が不愉快だった。ではどうしたらいいのか。
 ジョン・ル・カレ「寒い国から帰ってきたスパイ」(ハヤカワ文庫)から。

 海浜では、少女がひとり、かもめにパン屑を投げていた。かれへは背中をむけているが、海風にその長い黒髪をなぶらせ、コートの裾をひるがえらせ、そりかえったからだが、海にむかってひきしぼった弓を思わせた。リズがかれにからだをあたえたとき、あれとおなじ形を見せたのを憶えている。

 このようにこそ書くべきなのだ。それでは読者が分からないだろうと言うか。40年前サルトルが来日した折り、「もう小説は不可能だ。社会的なものはマルクス主義が、心理的なものは心理学が答えてくれる」と講演した。それに対して、それらを知らない未開発国の作家たちはどう考えたらよいのか? との記者の質問に「それは単に無知にすぎない」とサルトルは断言した。
 分からないという読者はいるだろう。ランボー「地獄の季節」から。

 もう秋か。ーーそれにしても、何故に永遠の太陽を惜むのか、俺たちはきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、ーー季節の上に死滅する人々からは遠く離れて。

 どうして無理をして分からなければならないのか? その質問に対しては「抽象が分からない」(2006年7月5日)を読んでほしい。最低限、努力は必要なのだ。
 閑話休題吉田喜重の映画の濡れ場のシーンはひどかった。岡田茉莉子の演ずるヒロインはまるで不感症のようだった。もしかして監督自身が下手だったのだろうか。その対極がゴダールだ。「軽蔑」の冒頭でブリジット・バルドーが事後なのだろうか、私の足は好き? 私のお尻は好き? 私の背中は? と聞いている。そのシーンはエロチックだった。
 いや、しかしゴダールも恋人だったアンナ・カリーナに逃げられたのだ。ゴダールも下手だったのか、あるいはそういう問題ではなかったのだろうか。