スタニスワフ・レム「宇宙飛行士ピルクス物語」

 スタニスワフ・レム「宇宙飛行士ピルクス物語」(ハヤカワ文庫)上下巻を読む。28年前に単行本で発売されたものの初文庫化。一応SF小説だが、もっと深い哲学的な小説なのだ。2006年に84歳で亡くなってしまったが、ノーベル文学賞はレムにこそ与えるべきだったのだ。文庫本末尾の大野典宏の解説を引用する。

 たしかに、単純に、とある宇宙飛行士が体験する冒険譚としても読むことも可能だ。すべての短篇がミステリまたはサスペンス小説の体裁で書かれているし、冒険譚でもあるので、純粋に娯楽として楽しむのもアリだろう。実際、本書はそういう読み方もできるように計算され尽くされている。本書に収録されている「〈アルバトロス〉号」は、純粋なサスペンスとしてよくできた部類の作品だと思う。
 しかし、今になって読み返してみると、各ストーリーの奥には"人工知能論"、"システム論"、"バグ"、"人的要因による事故"、"シミュレーションサイエンス"など、本書が最初に翻訳された約30年前には理解されにくかったであろう最新の工学論に基づいたアイデアが綿密に練り込まれている。本書は、いわば、システム工学的ハードSFミステリ作品集なのである。原書が発表されたのが1971年のことなので、約40年もレムはわれわれの先を走っていたのだ。

 下巻に36ページほどの「ピルクスの話」という短篇がある。ピルクスが宇宙飛行している時に巨大な謎の宇宙船に遭遇する話だ。そのこと以外にとりたてて大きな事件はない。しかし、その宇宙船はとてつもなく巨大なのだ!

 距離が22キロまで接近したところで、あきらかに相手の船が(ピルクスの乗る)〈夜の真珠〉号を追い越しはじめた。あとは間隔が拡がっていくのはわかっていた。(中略)
 それは宇宙船ではなく、空飛ぶ残骸だった。なんのスクラップか得体が知れなかったが。20キロ離れたところにいるそいつの大きさは、わたしの掌よりずっとでかかった。みごとに均整がとれた紡錘が円盤に、いや輪(リング)に変わっていたのだ!
 もちろん、あなたは、それが異星の宇宙船だということに、とっくに気づいているんではないかと思う。そう、なにしろ長さが10マイル(=16km)もある船だから……そういうのは簡単だ。だがはたして異星の船なんてだれが信じてくれるだろう。(中略)
(ピルクスは照明弾を発射する)わたしは照明弾が燃え尽きようとするいまはのきわに、あの巨船の表面を見た。つまりそれはなめらかではなく、まるで月の地表のようにでこぼこで、光は、丘やクレーター状のくぼみでむらになって拡がっていたのだ。あの船はきっと、すでに何百万年ものあいだ飛びつづけ、黒ずみ命を失って塵雲のなかに入りこみ、何世紀もたってからそれを抜け出したのだ。そのあいだに何万回となく塵のような隕石がぶつかり、船体をかじられ、真空の腐蝕に食われてしまったのだ。どうしてそう断言できるのか説明できないが、あの船には生き物がまったく乗っておらず、数百万年前にそれに大惨事が起こり、おそらく今は、あれを送り出した文明もすでに存在していないことを知っていた。(中略)
 それでいっさいのことが終わった。(中略)われわれのところへ宇宙から客がやってきたーーそれは、数百万年、いや数億年に一度あるかないかの訪問だった。だというのに、技師とやつの義弟のせいと、わたしが不注意だったために、あの船はわれわれの鼻先で姿を消してしまい、果てしない宇宙空間で幽霊のように溶けてしまったのだ。

 この短篇集に関して28年前の読書の記憶はほとんど残っていなくて初めて読むように新鮮だった。とこころが、上記のくだりを読んだとき巨大な宇宙船の残骸の鮮明なイメージが想起された。このイメージはいま浮かんだものではなく、過去に経験したものだと分かった。どこでだったのか? それは28年前ここを読んだときに形成されたイメージだった。あまりにも強烈なイメージだったので、こんなにも長期間記憶の底に残っていたのだろう。
 スタニスワフ・レムのSFは思いつきや単なるアイデアではない。深く人間について考察したものばかりだ。なるほど、最近は宇宙の構造に関して斬新なアイデアや、きわめて詳しい宇宙ステーションの記述など、優れたSFが書かれている。しかし、それらはすべてスタニスワフ・レムの後に書かれたことなのだ。レムの功績を忘れてはいけない。ノーベル文学賞を受けるに相応しい作家だった。
 私が推すノーベル文学賞候補といえば、もう一人スパイ小説のジョン・ル・カレがいる。内田樹も「私の海外の長篇小説ベスト10」でル・カレの「ティンカー・テイラー・ソルジャー・スパイ」を「全スパイ小説の頂点」と言っている。いや私に言わせれば、スパイ小説の頂点はル・カレの「パーフェクト・スパイ」なのだ。人生のすべてを諜報活動に捧げた、家族さえその手段として扱ったスパイの話だ。いずれル・カレにノーベル文学賞の与えられることを!