津田裕人の思い出

 MacDonaldやMcGregorなどのMacは「〜の息子」という意味だと聞いた。もうないと言ったばかりなのに、昨日に続いてまたブランドの話だ。このMcGregorというブランドも何点か持っていた。
 そもそもは友人の形見だった。3歳ほど年下の津田裕人が着ていた真っ黒なブルゾンがMcGregorだった。津田が早稲田の学生のとき、やはり早稲田の学生だった私の友人のアパートを訪ね、そのブルゾンを置き忘れて行った。友人から津田に返してくれと言って渡されたが、渡す前に津田が自殺をしてしまった。
 津田はハンサムで優秀でおしゃれだった。黒ヘルだったかに属していて、成田闘争にこのブルゾンを着て参加し逮捕されていた。シンプルな飾りの少ない機能的なブルゾンだった。われわれはそれを津田の戦闘服と呼んでいた。
 あんなにもてた津田がなぜ一人の女性に振られて死んでしまったのか。一人の女性との関係が決定的な時代があるのだということを忘れたわけではないのだが。
 津田のお母さんを訪ねると歓迎してくれるのがよく分かる。その時野見山暁治の語ったエピソードを思い出す。野見山はNHK日曜美術館の企画で戦没画学生を訪ねる旅を行っていた。後日それが無言館に結実する。
 野見山がある友人の遺族(大倉裕美の母親)を訪ねた。

 昭和18年満州、台湾、駐屯のあと20年5月8日、ルソン島バレテにおいて戦死。あんなにも軍事教練の嫌いだった裕美が、どうして戦死しなきゃならんのでしょうか。裕美が出征する日は、風がとても強くて、日の丸の旗をたてようにもどうにもなりませんでした。母親のその時の不吉な予感はそのまま切ない表情になって、生きている私に問いかけてくるようだ。私が大倉を殺したわけではないが、この母親と相対している間じゅう、私は罪の意識を抱いていた。
 秋の日はこうして暮れた。玄関に降りるとき、大倉の母親はレインコートを私の背中にまわって着せてくれた。あなたはお若い、小さくそう呟きながら、彼女の視線が後から私を眺めている。いいや私ではない。束の間、この家に息子が帰ってきたのだ。母親の目に涙が光った。4年前に夫を亡くした彼女は82歳になっていた。
  野見山暁治「残された画集ー戦没画学生を訪ねる旅」(平凡社ライブラリー

 「地球交響曲第6番」で横笛を吹いていた雲龍は津田裕人の妹のご主人だ。