リービ英雄と水村美苗の語る日本の階級構造

 先日紹介したリービ英雄「越境の声」(岩波書店)で、リービは水村美苗との対談で日本社会の階級構造に触れている。「階級と日本文学」という小見出しがつけられた章は、

水村美苗  それに加えて、やはり小説の市場が大衆化されたというのもあるでしょう。みんなが喰うや喰わずやで貧乏だった時代には、みんなが本を読める時代が来るというのが理想としてあり、現実がその理想に到達していないことの方に眼が行ってしまっていた。ことに文学なんてやっている人間は、後ろめたい思いが強いから、そういう問題意識をずっと引きずってやってきたんだと思います。ところが現実のほうはさっさと先に進んでしまい、気がついたらみんなが本を読める時代にとっくに突入していた。大衆が本の市場を左右する社会に突入していたんですね。でも、日本人は大衆化というものについて考察したがらない。貧乏だったのと、マルクシズムが強かったのとがありますが、そこにさらに農耕社会固有の共同体至上主義が重なって、そもそも大衆についてネガティヴに語ることがタブー視されているんだと思います。でも実際は大衆が本の市場を左右すれば当然起こることが日本でもちゃんと起こっている。同じ文学と名がついても大衆が読む本と一部の人間が読む本とが二分化されるということですね。ただ、それが自覚されていない、というよりもそのことを自覚することに抵抗があるんです。でも自覚しないと、そもそも文学の価値について云々できなくなってしまうでしょう。流通システムも含めて、まともな文学をどうこの大衆文化のなかで残すかという、先進国に共通したそういうあたりまえの問題について話せない。
リービ英雄  その構図は脈々とあると思う。それは文壇の内部でも外部でもみんな話したがらないもう一つの戦後のタブーである階級の問題につながっている。これは(水村美苗の)「本格小説」で扱われているテーマですが。
水村  頭の階級というものがある。それについて云々するのが抑圧されている。
リービ  いわゆる知性の階級構造ですね。
(中略)
リービ  階級の問題を扱うということを他の作家はあんまりしていない。もちろん中上健次のテキストには、近代とからんで「路地」という形で出てきますが、「本格小説」にはそうじゃない生い立ちの人が書く私小説的なものに階級問題を登場させることへの驚きがある。その問題は19世紀のイギリスと、1949年以前の中国という、階級が極めてはっきりしているふたつの文明に顕著で、そこにぼくの大嫌いだった19世紀のイギリス小説の文脈を持ってくる必然性がわかった。つまり西洋的教養がある階級とない階級という問題が、明治以来ずっとある。階級と文学についての問題は、アメリカにも中国にも日本にも常に同時にあった。日本でも、どういう人々同士が接するかと、どういう人々が文学を読むかがずっと問題としてあった。それはしかし戦後のなかで言ってはならず、しかも今(2003年)は不景気だから、かわいそうなのでもっと言っちゃいけない。
水村  ああそうか、もっと言っちゃいけなかったんだ……。