古田亮『日本画とは何だったのか』を読む

 古田亮『日本画とは何だったのか』(角川選書)を読む。優れた日本画論だ。古田は日本画クレオールだという。クレオール語とは現地の住民が支配者の言葉をまねて話したピジン語が、その子孫になって独立した言葉になったもの。古田は日本画ははじめ中国絵画に対するクレオール絵画で、19世紀後半から西洋絵画の圧倒的な影響によって、日本絵画が日本画と洋画という2つのクレオール絵画を生み出したという。
 古田は終盤、次のように書く。

 以上、述べてきたのは、本書で論ずべきと判断した日本画の諸様式についてであり、その様式を語る上で欠かすことのできない作家、作品に焦点を当てて論じてきた。その判断基準は、美術史学における様式論に則った時代様式の変化にとって重要であるかどうか、にかかっている。美術史を論じるにあたって、このような様式論的判断基準を用いることについては、若干の説明を要する。様式論はすでに過去の方法論であって現在では別の基準、例えば制度論的方法やジェンダー論的方法などがそれにとって代わっている、あるいは代わるべきである、と考える美術史家もいるからである。本書はすでに多くの紙数を要して近代日本画の歴史を辿ってきたが、もしも、様式論ではなく別の判断基準の上にその歴史を描いていたならば、近代の日本画という現象は、おそらくまったく違った見え方をしていたことだろう。しかし、本書は敢えて、近代における日本画のスタイルに着眼しつつ考察を試みている。

 「終章 日本画とは何だったのか」で文学者の水村美苗の『日本語が亡びるとき』を引く。水村の主張は、英語が世界共通語として影響力を増せば増すほど、相対的に日本語は亡びざるを得ない、現在日本語は英語に駆逐されて亡びようとさえしている、というものだ。古田は日本語と日本画の類似性は看過することができないと言う。

 ここに至って、根本的な問題が浮かび上がる。日本画を描くとは日本画財で描くと言うことなのか、日本画様式で描くということなのか、あるいはそれ以外の道もありうるのか、ということである。日本文学という芸術領域は日本語というツールの上に成り立っている。一方、日本画という芸術を成り立たせているのは、はたして材料なのか様式なのか、その両方なのか、もしくはそれ以外のものなのか、いわゆる現代日本画の課題というべき問題がここにある。

 古田は江戸末期からの日本絵画の歴史をていねいにたどっている。取り上げられた画家の数も膨大なものだ。副題が「近代日本画史論」とあるが、近代日本画史に関する優れた基本文献と言えるだろう。ただ一つ角川選書編集部に対して苦情を言いたいのは、これだけの優れた書籍でありながら人名索引がないことだ。400ページを超えて、営業面から索引ページを省かざるを得なかったのだろうが、大変残念なことだ。人名事典にもなりえただろうに。


日本画とは何だったのか 近代日本画史論 (角川選書)

日本画とは何だったのか 近代日本画史論 (角川選書)