想像すること、想像しないこと

 以前銀座のギャラリイKで石川雷太の個展があった。インスタレーションで、屠殺されたばかりの牛の頭蓋骨を透明なアクリルの箱に入れて6個ほど並べていた。その額には5寸釘が打ちこまれている。それぞれの頭蓋骨の前には「死刑囚S. N」とか「死刑囚H. H」とか書かれたプレートが置いてある。背後の壁に大きくスローガンが掲げられていて、そこには「我々は人を殺す権利がある」と書かれている。
 このアルファベットは東京小菅の刑務所に収監されている実在の死刑囚の頭文字だという。作家はこのような方法で死刑制度を批判しているのだ。この展示を見たとき私は死刑が何を意味するか初めて想像できたのだった。わずかな想像だが。死刑とは人を殺すこと、殺すとは目の前にある五寸釘を額に打ちこまれた頭蓋骨が象徴していることなのだ。この時の衝撃はいまも忘れない。私が死刑制度について何の想像もしていなかったということなのだ。優れた美術作品はこんな深いところまで表現できるということにも驚いた。
 石川雷太は屠殺場に行っていたらしい。キャノンが公募している「写真新世紀」展のパンフレットに佳作として石川雷太「屠殺場」という小さな活字を見つけた。佳作なので写真は紹介されていなかったが。
 「2ちゃんねる」の「嫌だったアルバイト」というスレッドに屠殺場の仕事というのがあったと娘から教わった。「ドナドナ」の歌にあるように、屠殺場へ運ばれてくる途中では牛や豚が鳴いているが、屠殺を待つ順番になるともう鳴くことはなく、黙って涙を流している。それが嫌だったと書かれていた。
 そんなことも考えたことがなかった。肉食というのはそういうことなんだ。畜産農家や屠殺場の人を責めているのではない。もし責められる者がいるのならそれは私を含めて肉食する人たちだ。そうかと言って肉食の快楽を知ってしまえば、菜食主義者になることもできない。