抽象表現主義とは何だったのか

 1992年頃、今から15年ほど前、美術評論家針生一郎先生から、現在なぜ抽象表現主義が行われているのか、その社会的背景を考えてみなさいと言われた。考えたが15年後の今日まだ分からない。
 しかし分かった事がある。なぜ針生先生がそう言われたかだ。
 作家(画家)で美術評論家、また個人誌「構造」の発行人でもある門田秀雄さんの論文を読んでいたら、美術運動は10年で移っていくと書いてあった。それで分かった。
 針生先生はマルキストだ。セゾンアートプログラムの講演会で好きな画家は麻生三郎、松本俊介、香月泰男だと聞いたことがある。みな社会性がある作家たちだ。抽象表現主義に一義的に社会性はない。針生先生は抽象表現主義がきっと嫌いなのだ。どんな美術運動も10年経てば古くなる。シュールレアリスムも、ポップアートも、ミニマリズムも、もの派も、具体も。アメリカで抽象表現主義が始まったのが1950年代だったろうか。日本にもそれはすぐに伝わった。10年で古びるはずの抽象表現主義が40年経っても古びないのはなぜなのか。おそらくそれが針生先生の疑問なのだ。
 私に限って言えば現代美術に関心を持ったのが1970年頃だった。その頃抽象表現主義は日本の現代美術の主流だったと思う。ルネッサンスマニエリスム、ゴシック、リアリスム、印象派、ポスト印象派表現主義、フォービスム、キュビスム、シュールリアリスム、アンフォルメル、そのように進化発展してきて、抽象表現主義という究極の完成=上がりに至ったのだと思っていた。その後出てきたポップアート、ミニマリスム、メディアアート、云々は単なるあだ花だと思っていた。まさか抽象表現主義が一過的な運動だとは考えてもいなかった。
 しかしすべての運動は一過的なのだ。最近になってようやく抽象が古び始めた。具象に回帰し始めたのだ。先日銀座のギャラリーなつかで見てきた母袋俊也も、浅草橋のマキイマサルファインアートで見た中津川浩章も、また赤塚祐二も中村一美も具象に戻り始めている。母袋さんになぜ具象ですかかと問うと、時代の流れです、というような返事が返ってきた。中津川さんは抽象が行き詰まったのですと言われた。
 その通りなのだろう。抽象が果てまで行き着いたのだろう。抽象のために残された畑は少ないのではないか。思えば具象こそが美術の究極の形なのだ。具象を中心に回ってきただけなのだ。絵は元来世界を写して来たのではなかったか。具象とはリアリズムではないと急いで言うが。もっと大きな概念だと重ねて言うが。
 それにしても、戻りつつあるその具象はまだ山口長男や野見山暁治、村井正誠の抽象に達していない。