うしお画廊の淀井由利子展を見る

 東京銀座のうしお画廊で淀井由利子展が開かれている(3月11日まで)。淀井は東京生まれ、武蔵野美術大学大学院油絵科を修了している。個展はみゆき画廊で行っていたが、みゆき画廊が閉廊後はうしお画廊で開いている。


 とくに大作が見ごたえがある。その作品を淀井は象の糞から作られた紙に描いているという。ネットによると、象の糞から作る紙=エレファントペーパーはタイのチェンマイの特産ということだ。木を一切使わないで象の糞から繊維質を抽出するエレファントペーパーは環境にやさしい紙だという。

 しかし、その素材を別にして、淀井の作品は見飽きない美しさを示している。会期が少なくなってしまったが、足を運ぶべき個展だと思う。

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淀井由利子展

2023年3月6日(月)-3月11日(土)

11:30-19:30(最終日は17:00まで)

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うしお画廊

東京都中央区銀座7-11-6 GINZA ISONOビル3F

電話03-3571-1771

http://www.ushiogaro.com/

 

 

どんな画家にも媚びがある



 山本弘の小品を並べてみた。いずれも6号という小さな作品だが、こうしてみると山本の別の顔が見えてくる。これらはいずれも晩年の作品で、小品でありながら取り付く島もないような印象を与える。特に最後となった1978年の個展では、奥さんに今回は絵は売らないと言い放ったという。そのことは昔針生一郎さんが山本弘について言った言葉を思い出させる。

 

どんな画家にも見る者への媚びがある、しかしこの人の絵には全く媚びがないね、ただ自分のためだけに描いている。

 

 ただ自分のためだけに描いている。潔いがそれだけ難しいことも事実だ。亡くなって今年で43年になる。山本弘がそのように長い間評価されてこなかったのも、その絵の難しさのためだった。ようやく理解者が現れて、今秋あたりから正式な個展が開かれそうだ。

 

 

ギャラリーなつかの易佑安展を見る

 東京京橋のギャラリーなつかで易佑安展「漆の装身具」が開かれている(3月11日まで)。易は2015年国立台湾芸術大学工芸デザイン修士を修了し、2021年より金沢美術工芸大学博士後期課程美術工芸研究科座学中。

指輪

指輪

指輪

ブローチ

ブローチ

ブローチ

ブローチ

ブローチ


 易は装身具・ジュエリーを作っている。驚いたのは展示されている指輪3点、大きく曲がりくねった針金の先に宝石が付いているが、こんな大きな指輪が実用になるものだろうか? 易の答えは実用にはなりませんだった。実用ではないと知っても、こんな造形を発想したことに驚いたのだった。

 その他ブローチが並んでいたが、どれも大きく、最初は装身具というよりオブジェかと思ったくらいだった。ブローチはいずれも実用とのこと。

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易佑安展「漆の装身具」

2023年3月6日(月)-3月11日(土)

11:00-18:30(土曜日は17:00まで)

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ギャラリーなつか

東京都中央区京橋3-4-2 フォーチュンビル1F

電話03-6265-1889

http://gnatsuka.com/

ガルリSOLのいらはらみつみ個展を見る

 東京銀座のガルリSOLでいらはらみつみ個展「立ち現れたモノ」が開かれている(3月11日まで)。いらはらは1972年神奈川県生まれ、2001年東京藝術大学美術研究科漆芸専攻を修了している。2022年ガルリSOLで初個展。座の会展に2019年から毎年参加している。

 タイトルの「立ち現れたモノ」に関するいらはらの言葉。

 

この建物は壊されることになった。家財道具を運び出し掃き清めると、一陣の風が吹き抜けた。/そこに立ち現れたのは、建物の中で深く眠っていた「記憶」だった。

*この建物は磯崎新氏の設計によって1980年に建てられたが、施主の都合により2022年に解体された。

 


 作品はその解体された建物の記憶をインスタレーションで再現しているようだ。床に置かれた丸いガラスは建物に使われていた窓、その脇の矩形の物体は建物の壁のタイル。窓から「気」のように和紙で作られた煙のような造形が立ち上がっている。これは和紙に漆を染み込ませているという。

 いらはらは大学で漆芸を学んできた。今回それをこのような形でインスタレーションに活かしている。ギャラリーの奥の小部屋には解体されたこの建物の資料が展示されていた。磯崎のポストモダンの建築だった。

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いらはらみつみ個展「立ち現れたモノ」

2023年3月6日(月)-3月11日(土)

11:00-19:00(最終日17:00まで)

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ガルリSOL

東京都中央区銀座1-5-2 西勢ビル6F

電話03-6228-6050

https://galerie-sol.com/

 

 

 

 

軍国少年の戦後

 山本弘終戦時15歳だった。軍国少年だった山本が終戦をどう感じたのか正確には分からない。ここに勝目梓の『小説家』(講談社文庫)という自伝があり、勝目が終戦時の体験を語っている。

 

 昭和20年(1945年)、日本の敗戦の年にこの世に生を受けたC女は、民主主義の理想を掲げた戦後教育の下に育っていた。加えてC女はポジティブな性格の持ち主であって、すべての物事を真っ直ぐに、真っ当に考えていく姿勢を身に着けていた。

 一方の中年の彼は、13歳で日本国の無残な敗戦に遭遇していた。昨日までは絶対的で普遍のものとされていた権威や価値観のすべてが、一瞬のうちに見事に瓦解し、転倒した。それを見た13歳の少年は、この世界は紙細工でできあがっていたようなものだった、という思いを痛烈に実感した。その言いようのない困惑と衝撃が、少年の中に心理的ニヒリズムといったようなものをトラウマとして深く刻みつけた。それまで尊敬の念を抱いていた身近の何人かを含めた世の大人たちの、無残な自信の喪失ぶりや、食べる物をめぐっての人々の醜いほどの争いなどが、そのトラウマをさらに深いものにした。もちろん彼自身も、醜い食べ物の争いの中で飢えを凌いだ。

 そうして気が付いてみると、彼はこの世のすべてのものに根深い懐疑心を堅く抱いた、きわめてネガティブな人間になっていた。彼はいつまでたっても、敗戦体験がもたらした精神的なエアポケットにころげ落ちたままで、そこから脱出することができず、抜け出るための道筋を見出すこともできなかった。この世界には信ずるに値するものは何ひとつないし、一人の人間の存在価値と一匹の虫のそれとは等価であって、違いなどどこにもないという考えは、遂に彼の根本的な信条のようなものとなり、70歳を越えた現在もなおまだどこかに尾を曳いている。

 

 わが師山本弘もまた同様に考えたのだろう。軍国少年だった山本は戦後ヒロポン中毒に溺れ、やがてアルコール中毒に進み、そのアル中は死ぬまで続いたのだった。山本を特徴づけるニヒリズム終戦の深い絶望から来ていた。彼の好きな言葉が、聖書の「空の空なるかな、すべて空なり」だった。軽井沢でバイトをしていた31歳の時、酔って壁にそう書いて泣き出したという。