山本弘の作品解説(105)「人柱像」

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 山本弘「人柱像」、油彩、(83.0×63.1cm)

 昭和27年(1952年)制作。山本弘22歳。ごく若いころの作品だ。当時の作品はあまり残っていないから貴重だ。裏面に紙が貼られていて、次のように書かれている。

 

行くやかたもなく

帰る床も知らず

只酔ひ痴れて

ぬばたまのすみを

ながめる

一九五二年九月

 飯田市浜井町

 (弘写)

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 暗いやにっぽい色で描かれている。若いころはこんな色を使っていたのか。私もあまり見たことがなかった。

 なお、1985年に開かれた「遺作展 山本弘」のカタログには昭和41年制作、F6号とあるが、間違いだと思う。

 裏面に飯田市浜井町とあるのは、当時山本が住んでいたところだろう。

        (飯田市美術博物館 蔵)

 

 

吾嬬神社へ初詣

 初詣は墨田区の吾嬬神社へ行った。小さな神社で参拝客はきわめて少ない。御祭神は弟橘姫(オトタチバナヒメ)、日本武命(ヤマトタケル)の奥さんで、江戸湾を横断するとき荒れた海を鎮めるために身を犠牲にして海に飛び込んで日本武命を無事対岸へ送り届けた。のちにその衣服が流れ着いたところに神社を建てて、吾嬬神社と名づけてこれを祭った。吾嬬=わが妻=弟橘姫である。

「すみだの史跡散歩による吾嬬神社の由緒」によれば、

 

この地は江戸時代のころ「吾嬬の森」、また「浮州の森」と呼ばれ、こんもりと茂った微高地で、その中に祠があり、後「吾嬬の社」と呼ばれたとも言われています。この微高地は古代の古墳ではないかという説もあります。

吾嬬神社の祭神弟橘媛命を主神とし、相殿に日本武尊を祀っています。当社の縁起については諸説がありますが、「縁起」の碑によりますと、昔、日本武尊が東征の折、相模国から上総国へ渡ろうとして海上に出た時、にわかに暴風が起こり、乗船も危うくなったのを弟橘媛命が海神の心を鎮めるために海中に身を投じると、海上が穏やかになって船は無事を得、尊は上陸されて「吾妻恋し」と悲しんだという。

のち、命の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと言われています。

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 吾嬬神社にちなんで江戸時代にはあづま村があり、東武亀戸線の最寄り駅は東あずまと言う。ヤマトタケル東征にまつわる事跡から神社が説明されている。しかしながら、このような地名説話はほとんど嘘である。まず地名があって、のちに説話が作られたとみて良い。

 東京湾を囲む地域のあちこちに吾嬬神社がある。神奈川にも東京の大森あたりにも千葉の木更津にもある。古代に東京湾岸に「あずま」という地名が散在していたのだろう。あずまとは何だろう。それは分からないが、あずまと言えば群馬県だ。吾妻郡や東吾妻町があり、吾妻川が流れている。吾妻川流域には縄文遺跡が多数分布する。大胆な推測をすれば、古代まだ日本列島に中央集権国家ができる前、群馬県にあずまと称する豪族がおり、その支配圏が東京湾岸まで及んでいた。各地に残る吾嬬神社はその支配の痕跡ではないのか。

 だから吾嬬神社が古いのは間違いない。古い地図には吾嬬神社の周辺は海で、吾嬬神社があるのは浮州の森と呼ばれた小さな島だったという。当時近所にはのちに石井神社と呼ばれる御石神信仰、また立石と呼ばれているこれまた御石神信仰を祭る聖地があった。私はいずれもブログに紹介してきた。

 

・吾嬬神社

https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/20061224/1166918895

 

・亀戸石井神社はすごく古い神社だ

https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/20130412/1365722612

 

葛飾区の立石様に行く

https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/2020/04/22/224818

 

・吾嬬神社へ初詣

https://mmpolo.hatenadiary.com/entry/2020/01/02/112533

(14~16世紀の古地図に吾嬬神社が小さな島に所在すると描かれている)

 

 

平林敏彦『言葉たちに』を読む

 平林敏彦『言葉たちに』(港の人)を読む。副題が「戦後詩私史」、平林が自身の詩歴や古い仲間たちとの交友を書いている。さらに近作の詩を10篇近く収録している。

 平林の詩に対して武満徹が私信で「人類が言葉を喪おうとしているとき、このように彫琢された言葉に接する喜びはたとえようもない」と伝えてくれた。

 若いころに平林の「ひもじい日日」を読んだとおぼしい三木卓は次のように書いているという。「平林の詩は、まるで自分自身のためだけに書いているように勝手でぶっきらぼうで読みづらかったが、好きで、よく読んだ。……現実と主体とのかかわり方が何か、ぼくに親近感を与えた。とくに平林の場合、どうしようもなくのめりこんでいるような感じだった」と。

 大岡信は書く。

 

平林敏彦は、肉体の各器官の中にとめどもなく溶解してしまうようにみえる自我を、たえまない嘔吐感に似た悪寒に悩まされつつ、思想の高みにまで引き上げ、造形しようとする。平林が多く素材を求めるのは、下町のよどんだ運河が流れるあたり、腐臭の中であらゆるものが待ちくたびれたりうなだれたりして、まるで、投げ出された臓腑のように無意味にうごめいている世界である。平林はこれらの間を、ひどく悲しげな顔をして歩みつづける。ねっとりとからみつく、物のかずかずの破片、それらに嘔吐感を催しつつも、平林は立ち去ることができない。なぜなら「今日」はまさしくそこにしかないからであり、出発するとすれば、これらの破片を、種子に変えての上でなければならないからだ。平林の詩集の一つは、『種子と破片』という象徴的な題名を持っている。

 

 さらに大岡は平林の詩を引用して、「これらの作品に見られる「現実感に溢れた非現実性」は戦後詩が達成した詩的技術の一到達点と言っていいだろう」とまで言っているという。

 そして30年間詩を書かなかった平林のもとに突然未知の詩人太田充広が現れて、自分が費用を負担するので平林の新しい詩集を出版したいと言う。それで1988年に『水辺の光 1987年冬』(火の鳥社)が発行される。

 詩集を読んだ長田弘が「letters」と題するエッセイを寄せてくれる。

 

 平林敏彦の『水辺の光 1987年冬』は、このもうすでにわすれられようとしている手紙の言葉を、あらためて想起させる詩集だ。その詩集は、手紙として書かれている。『水辺の光 1987年冬』は、かつて手紙としての詩をこころを込めて書き、ついに宛先をみつけられず、みずから詩を思い切った詩人が、それから30年(!)のあいだまもった孤独な沈黙のあとに、はじめてじぶんの手紙の宛先をみいだして、ふたたび「1本の鉛筆を削って」、こころを削ってしたためた新しい手紙の束だ。

 

 ほかにも飯島耕一辻井喬中村真一郎田村隆一らについても書いている。平林敏彦、現在97歳だ。

 

 

 

 

大賀典雄『SONYの旋律』を読む

 大賀典雄SONYの旋律』(日本経済新聞社)を読む。副題が「私の履歴書」、日経新聞の連載に大幅に手を入れて書き直したもの。これがとても面白かった。

 なぜテノール歌手の大賀がソニーの経営者になったのか長年の疑問だったが、本書を読んでその謎がよく分かった。昭和5年生まれの大賀の実家は裕福だった。自宅にはオルガンやピアノ、蓄音機まであった。大賀は子どものころから音楽の才能に優れ、小学生のときの教師から徹底的に読譜を教わり、あっという間にピッコロやフルートをマスターした。

 中学に入学する前年太平洋戦争が勃発し、中学2年のとき肋膜炎にかかる。療養生活を送っていた大賀に家庭教師を買って出てくれた人がいて、それが日商岩井の前身にあたる岩井産業の御曹司で、弟のようにかわいがってくれた。彼から電気回路の基本原理やその読み方を教わった。さらに西洋の歴史や地理、オーケストラのスコア(総譜)の読み方までお教わった。

 戦後、日比谷公会堂でベートーベンの「第九」を聴き、バリトンの中山悌一を知って声楽家を志した。東京藝術大学を受験し、二度目の受験で合格した。父親はグランドピアノを買い与えてくれたが、友人でグランドピアノを持っているのは大賀だけだった。

 芸大時代に既製品のなかったレコードを聴くためのアンプを製作した。それも米国の回路図を取り寄せて自作した。そのころ貸しスタジオ作りを手伝ってほしいと依頼され、沖電気工業との合作で回路を設計した。のちにNHKがこのスタジオをそっくり借り上げた。ソニーの創業者井深大がこのことを聞きつけて大賀のことを知ったという。

 ソニーの前身東通工が、完成したばかりの国産テープレコーダーを芸大に売り込もうとして見本を1台置いていった。大賀がそれを検討して問題点を10項目ほど書き出して東通工に提出した。これを本当に芸大の学生が書いたのかと社内で話題になったという。芸大卒業式の日に東通工の本社を訪ねると、嘱託契約をすることになった。

 大賀は24歳のときにドイツに留学する。運賃は船便も飛行機便も20万円前後かかった。住み込みの家政婦の月給が3千円の時代だった。今なら1~2千万円くらいだろうか。ベルリンの国立芸術大学を首席で卒業した。

 帰国して声楽家として活躍していたが、ソニーの社員になるよう強く勧められた。昼はソニーで夜は音楽をやればいいと言われて。そして29歳で正式にソニーへの入社が決まった。

 最初、放送局用のテープレコーダーなどを開発・製造する第2製造部長の仕事を任された。デザインについて提案するとデザイン部長を、広告について提案すると広告部長の仕事も兼任させられた。仕事が忙しく、夜のオペラの公演「フィガロの結婚」で出番を待つ間に寝てしまった。そんなことが重なって音楽の世界から足を洗うことになった。

 カセットテープの規格を標準化したり、コンパクトディスクの規格をフィリップスと共同で作ったり、米国CBSと合弁でCBSソニーを立ちあげた。そのレコード会社はアイドル路線でヒットする。山口百恵も大賀が、人の心を打つ歌が歌える子だと評価し採用した。その後米国CBSレコードを買収し、CBSソニーの社名をソニー・ミュージックエンタテインメント・ジャパンに改めた。

 さらにビデオのベータマックスを開発したが、ビクターと松下の開発したVHSとの競合に敗れた。ただビデオテープレコーダーは開発の際、ソニー松下電器、ビクターの3社の間にフリー・クロスライセンスの協定があった。3社が自由に使える特許も第3社が使うためには、VHSの規格であってもソニーに特許料を支払う義務があって、ソニーは製品を作らずに利益を上げたと言う。

 その後アメリカのコロンビア映画を買収する。家庭用ゲーム機プレイステーションを開発する。などなど、大賀の貢献は眼を見張るばかりだ。大賀典雄テノール歌手よりも経営に向いていたことがよく分かった。

 

 

 

謹賀新年

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謹賀新年

 

Tyger! Tyger! burning bright

In the forests of the night,

What immortal hand or eye

Could frame thy fearful symmetry?

虎よ! 夜の森かげで

赫々と燃えている虎よ!

死を知らざる者のいかなる手が、眼が、

お前の畏るべき均整を作りえたのであるか? 

           W.ブレイク

 

2022年元旦