大賀典雄『SONYの旋律』を読む

 大賀典雄SONYの旋律』(日本経済新聞社)を読む。副題が「私の履歴書」、日経新聞の連載に大幅に手を入れて書き直したもの。これがとても面白かった。

 なぜテノール歌手の大賀がソニーの経営者になったのか長年の疑問だったが、本書を読んでその謎がよく分かった。昭和5年生まれの大賀の実家は裕福だった。自宅にはオルガンやピアノ、蓄音機まであった。大賀は子どものころから音楽の才能に優れ、小学生のときの教師から徹底的に読譜を教わり、あっという間にピッコロやフルートをマスターした。

 中学に入学する前年太平洋戦争が勃発し、中学2年のとき肋膜炎にかかる。療養生活を送っていた大賀に家庭教師を買って出てくれた人がいて、それが日商岩井の前身にあたる岩井産業の御曹司で、弟のようにかわいがってくれた。彼から電気回路の基本原理やその読み方を教わった。さらに西洋の歴史や地理、オーケストラのスコア(総譜)の読み方までお教わった。

 戦後、日比谷公会堂でベートーベンの「第九」を聴き、バリトンの中山悌一を知って声楽家を志した。東京藝術大学を受験し、二度目の受験で合格した。父親はグランドピアノを買い与えてくれたが、友人でグランドピアノを持っているのは大賀だけだった。

 芸大時代に既製品のなかったレコードを聴くためのアンプを製作した。それも米国の回路図を取り寄せて自作した。そのころ貸しスタジオ作りを手伝ってほしいと依頼され、沖電気工業との合作で回路を設計した。のちにNHKがこのスタジオをそっくり借り上げた。ソニーの創業者井深大がこのことを聞きつけて大賀のことを知ったという。

 ソニーの前身東通工が、完成したばかりの国産テープレコーダーを芸大に売り込もうとして見本を1台置いていった。大賀がそれを検討して問題点を10項目ほど書き出して東通工に提出した。これを本当に芸大の学生が書いたのかと社内で話題になったという。芸大卒業式の日に東通工の本社を訪ねると、嘱託契約をすることになった。

 大賀は24歳のときにドイツに留学する。運賃は船便も飛行機便も20万円前後かかった。住み込みの家政婦の月給が3千円の時代だった。今なら1~2千万円くらいだろうか。ベルリンの国立芸術大学を首席で卒業した。

 帰国して声楽家として活躍していたが、ソニーの社員になるよう強く勧められた。昼はソニーで夜は音楽をやればいいと言われて。そして29歳で正式にソニーへの入社が決まった。

 最初、放送局用のテープレコーダーなどを開発・製造する第2製造部長の仕事を任された。デザインについて提案するとデザイン部長を、広告について提案すると広告部長の仕事も兼任させられた。仕事が忙しく、夜のオペラの公演「フィガロの結婚」で出番を待つ間に寝てしまった。そんなことが重なって音楽の世界から足を洗うことになった。

 カセットテープの規格を標準化したり、コンパクトディスクの規格をフィリップスと共同で作ったり、米国CBSと合弁でCBSソニーを立ちあげた。そのレコード会社はアイドル路線でヒットする。山口百恵も大賀が、人の心を打つ歌が歌える子だと評価し採用した。その後米国CBSレコードを買収し、CBSソニーの社名をソニー・ミュージックエンタテインメント・ジャパンに改めた。

 さらにビデオのベータマックスを開発したが、ビクターと松下の開発したVHSとの競合に敗れた。ただビデオテープレコーダーは開発の際、ソニー松下電器、ビクターの3社の間にフリー・クロスライセンスの協定があった。3社が自由に使える特許も第3社が使うためには、VHSの規格であってもソニーに特許料を支払う義務があって、ソニーは製品を作らずに利益を上げたと言う。

 その後アメリカのコロンビア映画を買収する。家庭用ゲーム機プレイステーションを開発する。などなど、大賀の貢献は眼を見張るばかりだ。大賀典雄テノール歌手よりも経営に向いていたことがよく分かった。