蓮實重彦が『ちくま』2022年5月号の連載エッセイ「些事こだわり」にアカデミー賞と濱口竜介について書いている。
……アカデミックな姿勢とはいっさい無援の、その呼称にはまったくふさわしからぬ年に一度のハリウッドの映画的かつ空疎きわまりない祭典には、いっさい興味というものがわかない。そもそも、アカデミー賞とは、誰の目にも屈辱の歴史にほかならぬからである。超一流の、それもハリウッドというよりは世界が評価する大監督にほかならぬラオール・ウォルシュも、ハワード・ホークスも、あのアルフレッド・ヒッチコックでさえ、一度としてオスカーを手にしていないのだから、アメリカ映画アカデミーなるものがいかにアカデミックな精神を欠いた人材からなっている出鱈目な組織であるかは、誰の目にも明らかである。
また、そこにはいくぶんかは個人的な趣味を介入させてもらうなら、美貌においても画面におけるその豊かな存在感においても他を圧倒していたあの大女優のエヴァ・ガードナーが、ジョン・フォードの『モガンボ』(1953)でたったの一度だけ主演女優賞にノミネートされたにとどまり、当然それにふさわしい演技を見せてくれたマンキ―ヴィッツ監督の『裸足の伯爵夫人』(1954)でも、ジョージ・キューカー監督の『ボワニー分岐点』(1956)でも、アカデミー会員たちからはひたすら無視されたのだから、その選考の出鱈目さは誰の目にも明らかだろう。
(中略)
実際、濱口監督の問題の作品については、あまり高い評価を差し控えている。とはいえ、それは、この作品の原作が、「結婚詐欺師的」と呼んで心から軽蔑している某作家の複数の短編であることとは一切無縁の、もっぱら映画的な不備によるものだ。妻との不意の別れをにわかには消化しきれずにいる俳優兼演出家の苦悩を描いていながら、問題の妻を演じる女優に対する演出がいかにも中途半端で、それにふさわしい映画的な存在感で彼女が画面を引きしめることができているとはとても思われなかったからだ。
亡き妻の録音された声を聞きながら、主役の西島秀俊があれこれ思うという重要なシークエンスは素晴らしい。ここの場面にとどまらず、西島秀俊はみずからが途方もない演技者であることを、画面ごとに証明してみせている。だがそのとき、見ているものは、彼の妻だった女優の顔をありありと記憶に甦らすことができないのである。
(中略)
最後に繰り返しておくが、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』は決して悪い映画ではない。個人的には『寝ても覚めても』の方を好んでいるが、これだって決して悪い作品ではない。また『偶然と想像』(2021)も素晴らしかった。ただ、どれもこれも水準を遙かに超えている濱口竜介の作品といえども、現在の時点で、青山真治監督の傑作『EUREKA ユリイカ』(2001)の域にはまだ達していないと言わざるをえない。