岡田暁生『音楽の危機』(中公新書)を読む。去年発売された時、コロナ禍で生演奏が聴けなくなったことを嘆いている時事的な本かと手に取らないでいたら、今年小林秀雄賞を受賞したのであわてて購入した。その授賞理由が、
「音楽」というものの生々しさと理念を情熱的に撚り合わせながら、コロナ禍という盛り上がれない時代の中で、音楽の未来を探った。アクチュアルであり、「時間論」としても優れた論考。
というもの。
コロナ禍を機に、音楽を演奏すること、音楽を聴くことを深く考えている。生の音楽ではない録音された音楽のことを岡田は「録楽」と呼ぶ。ライブ音楽に対するメディア音楽だ。これらは全く別のものだという。
音楽で大事なことは、「呼吸を合わせる」「相手の気配をうかがう」「身体を相手に向けて開く」といった感覚だという。「気配」こそが録楽とは違う音楽の生命で、メディアを通さない音楽の領域を死守する方策と理論をいろいろ用意しておかねばならないと。
またコロナ禍の後でどんな歌を歌えばいいのか。
(……)コロナ禍は(ベートーヴェンの)《第九》を含むビッグイベント向き音楽の下部構造を直撃し、人々が集まって熱くなることを不可能にしてしまった。「何千人もが集まって一緒に盛り上がる」ことが難しくなるという状況、《第九》の上演不可能という事態は自ずと、「近代社会のエンジン停止」という象徴的意味を帯びてこざるを得ないのである。
こんにちその存立が問われているのは、《第九》が体現している「右肩上がりの時間」という近代の物語自体である。(……)《第九》をはじめとするベートーヴェンの交響曲が基本フォーマットを確立した時間図式、つまり「最後は盛り上がって勝利に至る」というプロットは、いまだに強くわたしたちを呪縛している。(中略)
(……)コロナ禍は、《第九》的な物語がもはや社会の生々しい現実とどうしようもなく乖離し始めていて、もうその最終段階に来ているのかもしれないということを露わにした。
近代音楽はすべて目的論的な時間に呪縛されてきたという。第6章で採りあげた作品はいずれも、「近代」の目的論を根底から解体する試みだった。
時計から逃げるか(ラ・モンテ・ヤング)、時計が止まるまで待つか(ジョルジュ・リゲティ)、スケジュール管理のグロテスクな戯画を見せるか(ルイ・アンリーセン)、ゆるやかにみんなでなんとなく流されるか(テリー・ライリー)、流されることを断固として拒み、たとえズレていても自分のペースを守るか(フレデリック・ジェフスキー)。こうしたいろいろの発想が、公民権運動とベトナム反戦運動、ヒッピー・カルチャーとフリー・ジャズとロック、学生運動と1968年革命、そして石油危機と環境保護運動のはじまりといった社会潮流との、のっぴきならない対決の中で生み出されたものであることは、いうまでもない。そしてわたしは、彼らが提起した問いを今一度わたしたち自身の問題としてとりあげる好機が、今こそきているのではないかと思っている。
コロナ禍で生の音楽に接しられなくなったことを契機に岡田は遠いところまで思索を投げかけた。小林秀雄賞に価する優れた論考だと思う。