和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』(文春文庫)を読む。和田はイラストレーターとして有名だが、最初はライト・パブリシティにデザイナーとして入社する。多摩美在学中に日宣美に応募して1等賞を取った。その頃の日宣美はデザイナーの登竜門で、学生で1等賞は快挙だったのではないか。そんなことで銀座にあったライト・パブリシティというデザイン会社から声を掛けられ入社する。
まだ業界が小さかったので、多くのデザイナーやコピーライター、カメラマンたちと知り合いになっていく。また無償だったが日活名画座のポスターのイラストも手掛けるようになる。それは日活名画座が閉館するまで続いていく。日活名画座は伊勢丹デパートの前、いまのマルイの場所にあった。(ホモの名所でもあった)。
NHKのアニメの仕事も請け負った。趣味で作っていた作曲もプロのピアニストがアレンジしてくれて発表された。専売公社がハイライトを売り出す時、10数人のデザイナーを指定してコンペをしたが、和田のデザインが選ばれた。
草月会館に草月アートセンターが作られ、和田もそこに通ってさまざまな作家やジャズメン、作曲家たちと交流を深めていく。高橋悠治、武満徹、黛敏郎など。
日活名画座のポスターを見たという雑誌の編集者から雑誌の挿絵の依頼を受ける。また東レの退屈な会議中にいたずら描きしていたゾウのイラストをライト・パブリシティで絵本にして出版してくれた。
篠山紀信が入社してきた。ライトでは新人カメラマンは最初助手の仕事をさせられるが、篠山はいきなり一本立ちでやりたいと言って会社もそれを認めた。三宅一生も入社してきた。
1964年にイラストレーターズ・クラブを作った。宇野亜喜良や横尾忠則、柳原良平、伊坂芳太良、大橋正、山口はるみなどが参加した。
そのうち、自分はデザイナーというよりイラストに向いていると自覚する。ライトをやめて独立した。題名が『~ドキドキの日々』とあるが、記述からは順風満帆の日々に思われる。広告業界が発展しつつある時だったので、幸運な時代を経験していったのだろう。
ライト・パブリシティ―は今も銀座7丁目のうしお画廊と同じ通りに小さいが瀟洒なビルを構えている。