浜崎洋介『三島由紀夫』を読む

 浜崎洋介三島由紀夫』(NHK出版)読む。「シリーズ・戦後思想のエッセンス」の1冊。

 序章で浜崎が「自選短編集」の「解説」に(三島自身が)次のように書いていた、と紹介する。

 集中、「詩を書く少年」と「海と夕焼」と「憂国」の3編は、一見単なる物語の体裁の下に、私にとってもっとも切実な問題を秘めたものであり、もちろん読者の立場からは、何ら問題性などに斟酌せず、物語のみを娯しめばよいわけであるが、〔……〕この3編は私がどうしても書いておかなければならなかったものである。

 さらに、浜崎は書く。

……「憂国」関して言えば、三島自身が次のように書いていたことも忘れるわけにはいかない。すなわち、「私は小説家として、『憂国』1編を書きえたことを以て、満足すべきかもしれない。かつて私は『もし、忙しい人が、三島の小説の中から1編だけ三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の1編を読んでもらえばよい』と書いたことがあるが、この気持ちには今も変りはない」(『花ざかりの森・憂国』(新潮文庫・解説)と。

 とすれば〈三島由紀夫による三島由紀夫〉を標榜する本書が取るべき方法も自ずと定まってくるだろう。「詩を書く少年」(昭和29年)と、「海と夕焼」(昭和30年)と、「憂国」(昭和36年)とを中心に、その主題と関係すると思われる小説と批評群を読んでいくこと。そして、そこに書かれた言葉の意味を、『太陽と鉄』の「二元論的思考」と、それに導かれた三島由紀夫自身の履歴に即して読み解いていくこと。その作業によって、本書は三島由紀夫という人間が生きた「思想」の構造――それが「思想」と呼べるものであるなら――を取り出していきたいと考えている。

  浜崎は、三島の作品に即して三島の思想を取り出していく。それはとても手際よい。三島の思想がよく分かった。三島の思想が分かると、それは意外につまらないものだった。三島の思想にあまり興味を持つことができない。

 三島由紀夫は小説家であって思想家ではない。小説家から思想を取り出すと何が残されるか。それは「表現」と言い得るものだろう。「表現」とは何か。修辞であり、文体であるだろう。三島は表現に優れた作家だった。三島から思想を抜き出して論じるのはやはり邪道ではなかったか。