堀江敏幸『おぱらばん』を読む

 堀江敏幸『おぱらばん』(青土社)を読む。『ゼラニウム』同様先輩からいただいたもの。堀江が32歳くらいから雑誌『ユリイカ』に連載した短篇集。すべて14ページほどの短篇が15篇収められている。『ゼラニウム』より4年ほど前に書かれたもので、堀江最初期の短篇だ。優れた才能を表わしているものや十分に統率がとれていないものなどが混在していて、『ゼラニウム』に比べれば未熟さも見える。だが表題作の「おぱらばん」はすばらしい。
 フランスで私は中国からの留学生みたいな若者たちと知り合う。そんな中に皆から敬意を持たれている年配の先生と呼ばれている人がいた。私は共同炊事場で先生と口をきいたことがあった。先生は以前東京へ行ったことがあるとフランス語で言おうとして、「以前」というフランス語を思い出すのに10分以上かかった。ようやく思い出したのは日常語ではあまり使わないauparavantという単語で、片仮名に変換すれば「オパラヴァン」という副詞だった。それが「おぱらばん」と聞こえた。数日後テレビで見た連想ゲームで、意図的に母音を強調した甲高い声で出した「おぱらばん」というヒントに回答者が「中国人」と答えた。何日かして廊下で先生に会ったとき、どこでフランス語を勉強されたか問うと、見せてくれた『中佛簡易単語対照辞典』には、「以前」に対応する単語としてはたったひとつ、auparavantだけが記載されていた。(ふつうはavantを使うらしい)。
 あるとき、中国人学生たちと一緒に先生が姿を消してしまった。しばらくして街で先生を見掛け声をかけると、元気ですかのあいさつの後、唐突に卓球に誘われる。私も以前卓球少年だったから先生と卓球をすることになった。
 おおよそそんな話なのだが、ふと魯迅の「藤野先生」を思い出していた。日本人と中国人と役割は反対なのに、どこか似た味わいが感じられた。
 読み終わって『ゼラニウム』を思い起こすと、堀江が4年ほどの間に格段の上達を遂げていることに気づかされたのだった。


おぱらばん (新潮文庫)

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