杉森久英『滝田樗陰』を読む

 杉森久英『滝田樗陰』(中公文庫)を読む。副題が「『中央公論』名編集者の生涯」というもの。滝田樗陰が『中央公論』のアルバイト編集者になったのは明治37年ごろだった。当時の印刷部数はたった1,000部で、寄贈が300部、販売部数が300部で、廃刊寸前だった。社長の麻田駒之助は西本願寺門主の腹心のような存在で、『中央公論』はもともと西本願寺の機関誌に近い雑誌だった。雑誌は門主のポケットマネーで存続していた。
 アルバイトで入った滝田が文芸欄の充実を提案して、雑誌は徐々に発行部数を伸ばしていった。入社翌年の11月の200号記念増大号は、5,000部がたちまち売り切れた。その後漱石や花袋、独歩、白鳥などを雑誌に取り上げて、ますます部数を伸ばしていった。作家の自宅に樗陰が人力車で乗り込むと、その作家が売れっ子になることが約束されたと評判になった。
 評論の方でも吉野作造にデモクラシーについて書かせ、月刊雑誌としては圧倒的な部数を誇った。樗陰の収入は月給のほかに雑誌の販売部数の歩合を受け取り、高給を取るようになっていた。社長の麻田は高額納税者に名を連ねていた。
 『中央公論』は滝田樗陰ひとりで日本の代表的な雑誌になり、中央公論社は一流の出版社になった。そのことは講談社を戦前の大衆出版社から戦後のこれまた一流出版社に引き上げた編集者大久保房雄を思い出す。出版社はそんなに大きな組織ではなかったので、ひとりの功績で劇的に変わることができたのだ。
 かつて、加藤周一司馬遼太郎歴史小説を批判して英雄史観だと言った。英雄が歴史をつくっているとする司馬の歴史観を批判したのだ。歴史は英雄という個人が動かすには複雑すぎるだろう。片山杜秀も『国の死に方』(新潮新書)で、「あくまで時代を動かしているのは、きわめて大勢の人間の意向ときわめて複雑な社会の機構の織りなす、あまりに壮大な事の成り行きなのである」と書いている。加藤周一ならそれに生産関係を言うだろう。だが、出版社という比較的小さな組織だったら個人の力量が大きな変化を引き起こすことができるのだ。
 昭和40年に中央公論社が創業80周年を迎えるにあたって、杉森久英に委嘱して『中央公論社の八十年』を編纂した。本書はこの中から滝田樗陰に関する項だけを抜き出して独立の読み物としたものだという。
 なかなか面白く読んだのだった。しかし、中央公論社は日本を代表する一流の出版社だったにも関わらず経営に破綻をきたしそうになり、10年ほど前に読売新聞社に身売りしたのだった。栄枯盛衰は世の常なれど。