櫻井共和『零度』を読む、また田淵安一と野見山暁治のこと


 櫻井共和『零度』(櫂歌書房)を読む。櫻井は画家で、菊畑茂久馬と並ぶ九州派の重鎮櫻井孝身の息子だ。子供の時から父親の指導を受けて育ち、大人になったら画家になるつもりでいた。しかし入学した高校のデザイン科にあき足らず中退し、その後学校できちんと学ぶことは無かった。
 中学を卒業して半年後、父親に連れられてアメリカへ渡り、サンフランシスコで学んだ。しかし1年半後に日本へ戻った。
 福岡へ戻ってまた絵を描き始めた。今度は仲間を作って一緒に描いた。合作もした。19歳で初めて個展を開くと西日本新聞フクニチ新聞が取材にきて記事を載せてくれた。実績がないのに、おそらく櫻井孝身の息子だからだろう。
 24歳のときフランスから一時戻っていた父から誘われて、絵を学ぶために一緒にフランスへ渡った。フランスで田淵安一と知り合った。田淵は父親の知り合いだった。
 26歳で帰国し、福岡で画家生活に入った。毎年福岡や東京でも個展をしていたが、46歳のとき妻から東京移住を提案される。

「共和、ここにおっても絵描きにやら、なれんよ」と(妻が)切り出した。
「何、言いようとや、絵描きになっとうやないか」と僕は切り返した。
「あんただけそう思っとうだけたい。孝身さんの息子としてしか見てない人がいっぱいおるやん。共和が絵描きになりたいんなら、お父さんと関係ないところで独り立ちするしか、残れんとよ」と順子は言った。

 東京へ移り49歳のときから毎年銀座のみゆき画廊で個展を開いている。
 本書には24ページものカラー口絵がついている。21歳のときのポスターになったコカ・コーラの瓶の上で飛んでいる作品から、フランスで描いた裸の女がジャンプしているような作品。フランシス・ベーコンの影響が強い作品、輪郭を太く赤い線で描いた熊谷守一に似た作品、その後黒いチューリップを描き、やがて抽象に転じる。私もここ数年の抽象作品はみゆき画廊で見ている。
 そのみゆき画廊での個展のとき、櫻井と話したことが印象に残った。話半ばで櫻井の知人が来たので会話を中断し、続きは翌年の個展に持ち越して話した。
 櫻井は田淵安一を高く評価し、フランスで評価されるのは田淵と自分で、田淵の友人でもある野見山暁治はフランスでは評価されないと断言する。田淵はフランスの文化勲章みたいなものをもらっているし、野見山も日本の文化勲章を受章している。野見山がフランスで評価されないかどうかは分からないが、二人の作風は大きく異なっている。野見山は描きながら考えて作品を作っていく。描き始めには最終的な作品がどうなるのか明確なイメージをもっていないのではないか。しばしば描き始めと完成形が全く異なっている。
 田淵は東大の美学を卒業してフランスへ渡り画家となった。田淵の著書『イデアの結界』(人文書院)を読むと、11世紀のドイツの聖女ヒルデガルトの幻視を研究して、田淵は「ヒルデガルトの園」などの連作を描いている。描きながら作っていくタイプではなく、ヒルデガルトの幻視を研究してそれを元に作品化していったのだろう。
 櫻井に戻ると、やはり文章は専門でなく完全にはコントロールされていなくてしばしば読みづらかった。時間の経過などがなかなかわかりづらかった。巻末に年表が載っていたのでそれを参照して理解できたが。
 偉い親を持った子供は苦労するものなのだと同情した。毎年個展をしていたみゆき画廊がなくなって今年はどうするのだろう。


零度

零度