斎藤美奈子『文庫解説ワンダーランド』を読む

 斎藤美奈子『文庫解説ワンダーランド』(岩波新書)を読む。とても楽しい読書だった。これは岩波書店のPR誌『図書』に連載したもの。連載当時から毎月楽しみで読んでいた。題名通り、文庫の巻末についている解説について論評したものだが、あの斎藤美奈子だから素直に書くはずがなく、執筆者をおちょくったり皮肉を効かせたり面白おかしく論じている。特に各社の文庫になっている名作については様々な解説を比べて論評している。
 夏目漱石の『坊っちゃん』の解説は、新潮文庫では江藤淳が、岩波文庫では平岡敏夫坊っちゃん悲劇説を唱えているのに対して、集英社文庫ねじめ正一が、マドンナはうらなり君より赤シャツに魅力を感じるのは当然だと善玉と悪玉を逆転させる。
 川端康成の『伊豆の踊子』では、斎藤は集英社文庫の「解説」奥野健男、「鑑賞」橋本治を高く評価する。

 二人がともに着目するのは、「私」と踊子の間に横たわる階級差である。茶店の婆さんから「旦那さま」と呼ばれるエリートの「私」と「あんな者」とさげすまれる旅芸人の一座の階級差だ。奥野はそこから日本の伝統芸能に〉見られる〈上流貴族と卑賎視された芸人〉との〈不思議な交歓〉に言及し、橋本はそこから「私」の心情をさらに細かく分析する。
 「私」と踊子の間には超えがたい「身分の差」が横たわっている。当時は売買春も当たり前で、踊子もその含みをもっていた。〈「それならいけるか」と思った”私”〉は一座についていくが、むろんそんな欲望は表に出せず悶々としている。
 そんな彼の屈託を解放したのが風呂場で両手を振る薫(踊子)だった。だから彼は〈子供なんだ。私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた〉のである。下心を持って一行に同行した「私」のうしろめたさは、薫の「いい人ね」という一言で救われるが、それでもまだプライドが高すぎて自分の感情が整理できない。しかし、下田の港で彼女が白いハンカチを振る姿を見て、ついに自分の感情が何だったかを認めるのだ。

 フランシス・ホジソン・バーネットの『小公女』については、角川文庫版の野上彰のあとがきが取り上げられる。

……野上彰の「あとがき」はまことに不可解な代物である。教育的配慮はゼロ。〈フランシス・エリザ・ホジソンは、2度結婚している〉という点に、なぜか野上はこだわるのだ。
 〈子供たちにかまけてばかりいたのも原因だろうし、筆名が高くなるにつれて、主人のバーネット博士とも折り合いが悪くなったらしく、それに、2人の子供をつれて旅行にばかり出ていたので、そのようなことが原因で離婚したわけだ。……〉

 斎藤は、これではバーネットのゴシップ記事だとまで言っている。
 さて、今日の『小公女』の解説は、階級の問題と植民地の問題を指摘している。それらと立場が異なる解説者の例として、次の「解説」が紹介される。

 一例が講談社青い鳥文庫版『リトル プリンセス――小公女』である。不幸な境遇に落ちたセーラが想像力で希望をみいだす姿を讃えて、訳者いわく。
 〈今の日本人にいちばん欠けているのはそういう点かもしれません。国家にも社会にも家庭にも不備はあります。(略)しかし私たちが、うまくいかないことの理由を、自分以外の組織や人のせいにしても、ほとんど現実には救われないということもほんとうです〉 
 また、周囲への優しさにあふれたセーラを評していわく。
 〈セーラはけっして利己主義ではありません。(略)この点でも最近の日本の子供たちや若者たちは、幼稚になったような気がします〉
 この説教くさい解説の主は、訳者の曽野綾子である。
 植民地についてもいかにも曽野綾子がいいそうなことを、曽野綾子はいうのである。
 〈今まで日本では、植民地主義に関してすべてのことが悪だった、そして植民地で働いた白人たちはすべて悪い人だったような言い方をしますが、そうではないことを、私たちはこの物語の中の隠されていた部分にも発見するのです〉
 貧しさは自己責任論に還元され、植民地主義は半ば肯定され、物語の美質はなべて〈今の日本人が失ってしまった実に多くのみごとな人の心〉と解釈される。
 『小公女』までダシにするんだもんな。困ったもんだな、曽野綾子

 あんまり面白いから長々と引用した。最後に百田尚樹の『永遠の0』(講談社文庫)の児玉清に触れて斎藤が書く。

 図らずもこの解説は、特攻という非人道的な戦法を発明した日本軍の暴力性と犯罪性を隠蔽する。作品を相対化する視点がまったくないから、読者はまんまと騙される。

 もう面白くて面白くて斎藤美奈子最高!!