『服は何故音楽を必要とするのか?』という不思議な本を読む

 菊地成孔『服は何故音楽を必要とするのか?』(河出文庫)を読む。とても不思議な本で、パリ、ミラノ、東京で行われるファッション・ショーで使われる音楽と、そのメゾンの服との関係を考察するというもの。菊地ははこの音楽のことを「ウォーキング・ミュージック」と呼ぶ。ウォーキング・ミュージックとは、そもそも別の用途、多く「ダンス」のために造られた音楽が、ファッション・ショーに二次使用されることで発生する名称だ。今までこんな本があっただろうか。
 なぜこの本を読もうと思ったかといえば、菊地と大谷能生共著の『東京大学アルバート・アイラー』(文春文庫)というジャズ論を読んでとても面白かったからだ。
 本書はファッション・ショーの音楽について具体的に分析している。私とは縁のないそんな世界を書いたこの本が決して退屈ではなく、むしろ面白かったのは、菊地のこの世界に関する深い教養と独特の文体が無縁の世界を全く飽きさせなかったからだ。
 どんな風に書かれているかというと、

 一方、前者と後者の枠組みを超越するような動きもあります。クリスチャン・ディオールがアラブ的なパーカッションだけで音楽を構成し、マット気味のメイクにザラッとした質感のヘアで統一し「砂漠の軍楽」をイメージさせることで「ギャル」センスのネクストを見事に撃ち抜いたのに対し、クロエはドーリーかつシックなミニドレスで、お嬢様センスのネクストを狙うも、音楽があまりにヒステリック過ぎ、フェミニンを巡るセンスの微妙な配置を倒壊させてしまった印象です。天才アレキサンダー・マックィーンはフェミニン勢力が一斉に後退させた黒を徹底的に使い、チャンピオンベルト風のグリーク・アイコンと胸元のカット(フォンタナの「空間概念」を想起させる、痛いまでに鋭い切り口です)に執着し、発狂したリアルクローズといった趣。20年代にドイツで隆盛を誇った「退廃芸術」の女神を思わせる、ある種の変態性/様式性は完成した感さえあります。奇矯さで名を成した彼が、一転してリアルクローズ「風」なレディスを作ることで見せた光景は、内在していた女性への攻撃的マゾヒズムが開花した印象。音楽はヒステリックかつセクシュアルな絶叫とギターに満ちたロック使い。完璧です。

 リミ フゥ(山本耀司の娘)のショーについて、

 ミッドセンチュリー以前のモダンアートとシアトリカル・パフォーマンスとハイモードの統合。ロシア構成主義と80年代コピーライトシーン(この二つは非常に親和的でしたが)。ブレヒト演劇とフルクサス芸術。パリモード状況のマニエリスティックなパスティーシュ。東京のシーンの中でも最も突出した攻撃的な知性と遊戯性を兼ね備えたシアタープロダクツは今回も脱構築の嵐。ファゴット(クラシックの楽器で、クラシック以外の音楽で使われることはほとんどありません)、ドラムス、エレキギターという奇妙な(音楽シーンの用語では「レコメン的」「チェンバー的」等と言います。前者は奇特で陽気なヨーロッパのアンダーグラウンド・レーベル、後者は室内楽的なロック。というジャンルのことです)編成の生バンドによる演奏(ニルヴァーナの曲をこの編成でカヴァー。という〈典型的な曲球〉)で前半のメンズ終了、大きなサイレン型スピーカーをたくさん設置して、後半はレディス。という二部構成ですが、メンズに関しては懐かしの「たま」を思わせるコジキ風から、チョイワル「フリー&イージー」なモデルの、バーバリー プローサム的なユニセックスパステルの行進まで、レディスはややフェティッシュにさえ見えるドーライズ(ドール的な。ということではなく、本当に人形のようにデコレーションしてしまう)、配布されたポスターは手書きオップアート的なストライプ模様に「ストライプを持って帰ろう」というスローガンを始めとした、構成主義壁新聞的仕上がり。スピーカーから流れるのは、甘く懐古的なシナトラの「Night and Day」から音響派フォーク、ミニマル、ジャズ風クラブ・ミュージック、ノイズ、シャンソン、流行歌。

 衒学趣味満載、教養たっぷりの軽薄な文体。もう恐れ入ってしまう。
 菊地の本業はジャズに軸足を置くジャンルレスな音楽家なのだ。その菊地のジャズに関する名著『東京大学アルバート・アイラー』。
『東京大学のアルバート・アイラー』を読む(2012年7月29日)