『東京大学のアルバート・アイラー』を読む

 菊地成孔大谷能生東京大学アルバート・アイラー』(文春文庫)を読む。副題が「東大ジャズ講義録・歴史編」とあり、2巻本の上巻で、下巻が「東大ジャズ講義録・キーワード編」となる。これが途方もなくおもしろかった。本書は2005年5月にメディア綜合研究所から出版された。その頃毎日新聞の書評で井上章一が絶賛した。

 私はこういう本を、まっていた。こういう本が、読みたかった。今、一冊をいっきに読みおえ、たいへん満足している。
 テーマはジャズの歴史である。20世紀後半にモダンジャズが成立する。そして、先鋭化されつくしたはてに、古典芸能化されていく。その経緯を、この本は説明してくれる。
 そんな本、いくらでもあるじゃないかと、思われようか。そう、モダンジャズ歴史読本なら、くさるほどある。だが、本書のようなかまえでジャズ史にとりくんだ出版物は、まだ見たことがない。この本が、すくなくとも私にとっては、最初の一冊である。

 井上は中年になってピアノを学び始め、音楽理論もならいにいって、「いわゆるバークリー・メソッドの、その初歩を一応はおさめている」。その結果、それまでの音楽鑑賞がたいへん幼稚であったことに気がついた。

 自分は、今まで何を聴いていたんだろうと思う。と同時に、ジャズ史の一般的な書籍を、物足りなく感じだす。それらは、ほとんど演奏技術や楽理をふまえていない。音楽史ではなく、ミュージシャンの人物伝、逸話史になっている。あまりにも文学部的な歴史に、なってしまっているのである。
 やはり、こういうものは、プロのミュージシャンに書いてほしい。でも、プロには歴史叙述へいどむ暇なんかないだろうな。そうあきらめていたところに、本書はでた。私が待望の一冊というゆえんである。
 そして、期待はうらぎられなかった。楽理につうじた者だけが指摘しうる。そんな解釈が、この本では随所にちりばめられている。
 たとえば、ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』(1959年)。このアルバムで、コルトレーンはよりモダンな方向へ、あゆみだしていたと評される。では、どこがどう新しいのか。
 通常のポピュラー楽曲は、4度進行でコードがすすんでいく。4度圏表を時計まわりに、1歩ずつ。だが、『ジャイアント・ステップス』では、それが一度に4歩分をまたいでいた。巨大なあゆみ(ジャイアント・ステップス)と名づけられたのも、そのためだと、著者たちは推測する。(中略)
 本書は東京大学教養学部での授業(2004年度)を、活字化させたものである。だから、東大生でもわかるように、話はくみたてられている。標題だけを見て、いやみったらしそうな本だな、と思ってはいけない。内容は「サルでもわかるジャズ史」なのだ。そして、ここでは東大生が、そのサル」になぞらえられている。(後略)

 長い引用になったが、本書の特徴と魅力をよく伝えている。
 講義の正式名称は「12音平均律 → バークリー・メソッド → MIDIを経由する近・現代商業音楽史」というものだった。この3つの単語が、「それぞれ、これまでの音楽の歴史のなかで、音楽を記号的に処理する、音楽を記号的に捉えて、それを分析したり制作したりできる体系を作り出そうとするっていう、そういったムーヴメントのピーク・ポイントとなった事柄について示したものです」。そしてそれらを中心にジャズの歴史が語られていく。ほとんど興奮するくらい楽しい読書だった。
 その一部を引用する。「第8章 1965〜1975年のマイルス・デイヴィス(1)」から、

今回と次回は、2回分使って、「1965〜1975年のマイルス・デイヴィス」をやります。『カインド・ブルー』以降のね、モード手法を確立した後のマイルスの音楽ってのについて、そういえば全然触れていなかったなーということで、この時期のマイルスの活動の変遷を辿りながら、当時のミュージック・シーンの動向についてもいろいろと触れていきたいところです。激動の時代ですからね。前回聴いたような、殆ど気狂いのようなサウンドが大挙として溢れていたジャズ・シーンにあって(笑)、マイルスはどういったスタンスを取っていたのか? 今日は「その1」ってことで、アコースティック時代の最後までやっていきます。(中略)


John Coltrane 'Mars'(音楽を流す、以下同じ)


 ……もうずっと聴いていたいですね。どのくらい聴いていたいのかというと、死ぬまで聴いていたい(笑)。死ぬ時に鳴っていて欲しい。あるいは欲しくない(笑)。自身の芸術を突き詰めていった結果、印象派からキュビズムを通り抜け、抽象表現主義をさらに超えて、こういった非常に極端な表現に至る、と。モダニズムの極北です。

 このアルバムが発表された1967年は、コルトレーンが急逝し、アメリカ国内では黒人暴動がピークを迎え、ベトナム戦争が継続中だったという。

 そんな年にですね、こういったアルバムが発売されることになります。これです。1967年、ビートルズが『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を発表しました。


The Beatles 'Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band'


 はいはい、世の中に佃煮にして売るほどあるビートルズ本の多くで、彼らの最高傑作とされているアルバムです。20世紀の1枚。みたいなものでも取り上げられますね。まー何にせよエポック・メイキングな作品であることは間違いなく、これ1曲分析してるだけで1年持ちそうですが、ここでは、「世界で一番売れているバンドが、当時としては実に斬新な、アーティスティックに作り込まれたアルバムを作った快挙」という点にだけ触れておきたいと思います。
 さて、では我らがマイルスはこの年どんな作品をリリースしているかといいますと……


Miles Davis 'Nefertiti'


 これです。『ネフェルティティ』。(中略)
 この3枚は簡単に入手できますので、これ、1回試しに3枚並べて通して聴いてもらいたいですね。全曲。ビートルズ、マイルス、コルトレーン。当時、報道から何から、アメリカならず全世界を巻き込んで侃々諤々。

 全編講義の口調なので分かりやすいが、あとがきによると、二人できっちり作った講義を、大谷能生が菊池の文章のイメージで全部書いたのだという。
 私はメディア総合研究所発行の単行本を買っていたが、2009年まだ読まないうちにこの文庫本が出て買い直した。でも今日までこれも読んでいなかった。こんなことならもっと早く読めばよかった。