- 作者: 加藤周一
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
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また戦後小津安二郎の『晩春』には、父(笠智衆)と娘(原節子)が京都の宿で床ををならべて寝ている場面がある。そこで日本の観客は、私自身を含めて誰も近親相姦を考えもしなかっただろう。しかし映画を見た米国の学生の多くは、そこに性的暗示を読み取ったのである。そのちがいはどこから来るのだろうか。背景には広汎な比較文化論的問題がある。
この「父と娘が京都の宿で床ををならべて寝ている場面」から米国の学生たちが性的暗示を読み取ったことを比較文化論的問題と書いている。この場合結果的には間違っていたが、僅かな暗示から隠されているものを読み取る力、想像する力の有無を考えてみてもいいのではないか。
私は以前紹介した「ねじめ正一『荒地の恋』を読んで、また猫山のこと」(2007年11月19日)を思い出している。そこにこう書いた。
(「荒地の恋」は)瑕疵は少なくないが、いい伝記だった。北村太郎のことがよく分かった。特に気に入らない所は次の「性交」という言葉だ。
7月26日に阿子が北村の部屋へきた。この日も雨であった。窓の外では南京墓地の桜やミズキの無数の青葉が雨に打たれつづけていた。北村は合羽橋で買った専用の小鍋で上手に親子丼を作った。二人で向かい合って食べ、それから当然のように性交をおこなった。
こんなのは「それから当然のように阿子が泊まっていった」でいいのに。
わずかな暗示で示すことができるのをあからさまに書くことは下品なことだ。ねじめ正一の下品さがちょっと嫌だ。と言いながらねじめの下品な詩はなかなか楽しめた。
- 作者: ねじめ正一
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