北軽井沢照月湖の山本弘

 友人の運転する車で北軽井沢を通ったとき、寄り道して友人が学生の頃バイトをしていたという照月湖を案内してくれた。観光客相手の土産物店でのバイトだったという。驚いた。北軽井沢の照月湖は大江健三郎もこのあたりに別荘を持っているはずだが、私にとっては何よりも山本弘が働いていた場所だ。まさに同じ照月湖の土産物店でバイトをしていたのだ。友人よりも7、8年前になるだろうか。一度来たいと思っていた場所だ。
 山本弘と一緒に北軽井沢で働いた遠山望さんの「追悼・北軽の山本弘」が「山本弘遺作画集」に載っている。その全文を掲載する。遠山さんも昨年亡くなった。

 山本弘にとっては、飯田逃避の一つではあったかも知れないが、あの三六災(注:昭和36年3月の飯田地方を襲った集中豪雨)をはさんで前後3年間の浅間高原北軽井沢生活は彼の本来の仕事であった創作活動は別にしても心身共にかつ経済面でも最も安定した時期のように思う。
 私の知る限り山本弘の青春時代はかなり苦渋に充ちたものであったが、この北軽時代は彼にとって青年期最後の光彩であった。
 ただ人一倍内向的な彼は内心悶々としつつも外面的にはまさにみづみづしく溌剌たる現代青年の雰囲気をまき散らしていた。
 赤いチロリアンハットにデニムのズボンといういでたちで私と毎日のように浅間高原を軽自動車で乗り回していた姿は後年体調芳しくなかった彼からは全く想像できない。
 吾々の勤務先は避暑客や別荘族相手の多角経営であり弘は照月湖と云う湖のほとりにある売店の責任者としての傍ら、楽焼部を受け持ち多勢のアルバイト学生の上に君臨していた。
 ウイスキーをあおりながら彼が絵つけをした素焼の皿は釜から出された途端に素晴らしい芸術品に変貌した。私をはじめお客や従業員は息を呑んだもので、まさに錬金術を見る思いであった。
 特に外人客相手に売りつける楽皿は裸婦の絵が多く、値段も弘が適当につけては売っており、300円の素焼皿が1万円にも売れたことは珍しくなかった。店の売値はだいたい決まっていたので、かなりの収益が彼のポケットに転がり込んだことは確かでこの面でも錬金術に長じていたと思っている。
 また湖周辺の別荘のマダム連もこの湖畔に散歩に来るようになり自らをメフィストと称して得意になっていた弘のあの不思議な魔力に魅せられはじめてきた。担当部処の異なる私が仕事の合間に訪ねると彼の机の上にはファンの奥様連からの差入れの御ちそうがいつも置いてあった。
 ときどき湖畔を散策する森の妖精のような黒衣の美女が詩人の岸田衿子女史だと彼が教えてくれたのもこの頃である。
 彼がひそかに調達してくる色々なアルコール類を或る晩アルバイトの学生共を前に、二人で怪気炎を上げた果てに二人の専用の寝床であった部屋にへべれけで引上げてくると、彼は突然部屋の壁に意味の判らないローマ字をチョークで大書した。私がそれをたづねると彼は泣き乍ら「虚無。そして虚無。総べて虚無」とわめきながら布団に潜りこんだのであった。今にして思えばこのことは私には彼の後年の運命を暗示していた気がしてならない。(1985.9.20、友人)

 私が初めて山本弘に会ったのは、北軽時代から数年経っていたが、古びた赤いチロリアンハットを持っていたのを覚えている。その数年の間に脳血栓を患い、愛子さんと結婚したのだった。不思議なことに脳血栓の後遺症で手足が不自由になってから絵が飛躍的に良くなっていったのだ。