鷲田清一:「きたない」または〈私〉の境界

 鷲田清一の講演録で「ファッションという装置」(河合ブックレット)がある。
 そこで鷲田は、レインを引用して「きたない」という感情について次のように紹介している。
 「レインは、ぼくたちが何かを飲むときには4通りのケースがあると言います。」
1. まず口の中の唾を呑みこむというケース。
2. たとえばコップの中の水を飲むというケース。
3. コップのなかに唾を吐き出し、その唾と水とをいっしょに飲むというケース。
4. 水をすすり、それで口をすすいでからまたコップに戻し、その吐き出したものを、もう一度飲みこむというケース。

ぼくたちはほとんど例外なく、3と4のケースに即座に「きたない!」と反応しますね。想像するだけでぞっとする。けれどもよく考えてみれば、どのケースにおいても、実際に喉を通過するのは同じもの、つまり水と唾だけです。そうすると「きたない!」といったこの拒絶反応は、何を飲むかではなく、むしろ飲むという行為についての何らかの解釈から発生している、と考えたほうがよさそうです。
 3、4のケースが1、2のケースと違うのは、3、4では水や唾が口から出たり入ったりすることにあります。もともと身体のなかにあったものがいったん外へ出て、外にあったものと混じりあって、それがもう一度身体の内部に吸収される。ここでは身体の内と外がごちゃごちゃになっている、混乱しているわけです。そしてこのように身体の内部と外部の境界を曖昧にするものに、ぼくたちはどうも拒絶反応を示すようです。

 ところで、ダート、つまり汚物の観念については、メアリ・ダグラスという文化人類学者が非常に明解な説明をしています。尿・便・月経血・唾・痰・アカ・汗・爪・髪など、もともとわれわれの身体の一部であるものが、いったん身体から排泄され、分泌され、あるいは剥げ落ちると、しかもそれらが身体の開口部に付着したままになっていると、とたんにたまらなく汚くおもわれるのは、それらが身体の内部と外部の境界を、言いかえれば、私と私でないものとの境界を曖昧にしてしまうからだ、と言うのです。身体の穴から出てきて、その穴の周りにくっついているものは、身体から出てしまっているので、もはや私のものではないが、かと言って、くっついているわけだから私以外のものに属するわけでもない。それは私であって私でないもの、私の内部と外部が決定不可能なかたちで混じりあっている両義的な部分であり、〈私〉という存在の輪郭を侵犯し、曖昧にしてしまうので、それゆえわれわれによってはげしく忌避されるのだ、と言うのです。要するに、あるものとそれ以外のものとの分類を混乱させるものが、「きたない!」というかたちで、われわれの過剰な感情的反応を引き起こすというわけです。だから、場違いなもの、たとえばテーブルの上に置かれた靴とか、ネクタイにくっついたケーキとかにも、ぼくたちは「きたない!」と反応してしまうということになります。
 こうした事実からメアリー・ダグラスは、次のような命題を導きだします。それは、「汚(けが)れがあるところには必ず体系が存在する」というものです。というのも、もし分類を混乱させるものが汚いのだとすると、「きたない」という感情はいつも何らかの分類システムの存在を前提していることになるからです。この分類システムというのは、言ってみれば意味の分割線、意味の境界のことです。


ファッションという装置 (河合ブックレット)

ファッションという装置 (河合ブックレット)