鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』を読む

 鷲田清一『ひとはなぜ服を着るのか』(ちくま文庫)を読む。ファッションやモード(流行)を哲学的に分析している。鷲田は現象学が専門の哲学者で大阪大学総長などをしてきている。

わたし自身が(……)哲学者でありながら、ファッションについて文章を書きだしたときには、相当な抵抗があった。抵抗といえばかっこいいが、要するに侮蔑され、冷笑されたのであった。わたしがはじめてファッション論を書いたとき、哀しい思い出だが、哲学の恩師のひとりに、ファッション雑誌の言語分析をしたロラン・バルトの『モードの体系』のことを言うふりをして「世も末だな」と言われた日のことはいまも忘れない。

 そのように鷲田には先覚者がいた。ロラン・バルトボードリヤールだ。哲学者がモードを論じる場所はできていた。
 本書は2部に分かれている。「第1部 ひとはなぜ服を着るのか」と「第2部〈衣〉の現象学――服と顔と膚と」だが、第1部は1997年にNHK教育テレビで放送された人間大学のテクストを再録したもので、第2部はさまざまな雑誌に書いたエッセイを集めたものだ。そのため第1部にはまとまりがある。ただモードに関する20年前の論考なのでやや古さは感じてしまう。もっともモードと言ってもその原理論なのだが。
 モードを哲学的に論じるとどうなるかという例を、

 ネックレス、指輪、長手袋、腕を絞めつけるブレスレット、踝(くるぶし)に巻かれたアンクレット、そして素肌をちらちらさせる袖口、胸元、スカートの裾……。そう、衣服がぱっくり口を開けているところが、身体の「裂け目や断層や傷口や孔」にとって代わるのだ。あるいは身体を透かし見せるトランスパランの生地、身体表面をするどい線で区切る黒のブラジャーやガーターやストッキング、スリットを入れて身体をちらちら露出させるドレス……それらのすべては、タブー視されている身体の秘密の際にますます近づくことによって、身体を侵犯するようにみえてじつは逆にそれを回避する。記号が作用するその論理にますます深く組み込まれることによって、である。
 皮肉な物言いをすれば、モードは、もっとも危険なゲームを回避するためにくりひろげられる、記号の「ちょっとアブないゲーム」だということだ。

 あるいは、

 ファッションが編み上げる物語の一つに、隠蔽/露出の物語がある。ファッションが性的な誘惑の装置でありつづけてきたのは、そしてそのために、ちらちら見えるという出現/消滅の物語を身体表面のあちこちで演出してきたのは、見えているものの背後にある隠されたものを仮構するためであった。そして衣服を一つ一つめくっていけば、最終的にその人間の「真の姿」ともいうべきありのままの実体にたどりつくはずだという確信そのものを仮構するためであった。
 が、ファッションの興味深いところは、そういう自己の目的をたえず裏切るところにある。衣服があるスキャンダルを引き起こすことがあるとするならば、それは(ジャーナリズムが遊び気分でコラム的に紹介しているように)隠されたボディをひどく露出させるときではない。表面の背後には隠すべきものはなにも存在しないということを覆い隠す「物語」の隠蔽性の構造を、おなじ衣服をもちいて平然と剥きだしにするところに、ファッションのスキャンダルは発生する。「モードは、〈みずからせっかく豪奢につくり上げた意味を裏切ることを唯一の目的とする意味体系〉というぜいたくな逆説をたくらむ」とか、「モードは無秩序に変えられるためにある秩序である」といった、ロラン・バルトによるファッションのもっともアイロニカルな定義は、そこのところをするどくついている。

 本書は1998年11月にNHKライブラリーの一冊として刊行された。その頃読んでいるので20年ぶりの再読になったが、ほとんど覚えていなかったので楽しめた。鷲田のモード論は軽くて楽しいのだ。それで鷲田の現象学に関する本も読んでみたのだが、それはひどく難しかった。



ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫)

ひとはなぜ服を着るのか (ちくま文庫)