猪木武徳『戦後世界経済史』を読む

 猪木武徳『戦後世界経済史』(中公新書)を読む。ドナルド・キーンが本には索引が必須と言っていた。索引をみれば、自分に必要な本かどうかが分かるからと。本書の人名索引で「マルクス」を探した。載っていなかった。事項索引には「マルクス主義」が1点だけ載っていた。それは「英国労働党は、元来マルクス主義とは縁が薄く、フェビアンの社会改良主義を背景とした政党であった」という文脈で語られている。元よりそのことは想定済みだった。猪木武徳は保守派の政治学猪木正道の息子だから。副題が「自由と平等の視点から」となっている。
 題名通り世界経済史の分かりやすい概説書となっている。小見出しを拾うだけでも本書の大まかな構成が分かる。戦後の「新しい秩序の模索」「ソ連の農業と科学技術」「通貨改革と経済の奇跡」「日米の経済競争」「東アジアのダイナミズム」「社会主義経済の苦闘」「ラテンの中進国」「脱植民地化とアフリカの離陸」「石油危機と農業の停滞」「東アジアの奇跡」「国際金融市場での破裂」「社会主義経済の帰結」「バブルの破裂」など。
 断片的にしか知らなかったことが体系的に語られている。出版されたのが2009年でもう10年前だが、積読状態でやっと読んだので、少し古くなってしまった。経済史などというあまり縁のない世界だったが、それだけに知らないことが綴られていて400ページを興味深く読んだのだった。

 

 

戦後世界経済史―自由と平等の視点から (中公新書)

戦後世界経済史―自由と平等の視点から (中公新書)

 

 

美術評論家3人が亡くなった

 6月からふた月ばかりの間に3人の美術評論家が亡くなった。6月2日にワシオ・トシヒコさん(75歳)が、6月3日に本江邦夫さん(70歳)が、そして8月5日に名古屋覚さん(51歳)が亡くなった。ワシオさんと本江さんが心筋梗塞、名古屋さんは自分ですい臓がんだと『ギャラリー』7月号のコラムに書いていた。
 ワシオさんは美術評論家で詩人だった。わが師山本弘について公明新聞と雑誌『Bien 美庵』に紹介してくれた。『ワシオ・トシヒコ詩集』(土曜美術社出版販売)が発行されたとき、青華画廊で展示即売会が開かれた。出版の条件が発行部数の半分を著者が購入するというものだった。それで即売会を開いたので私も購入した。そこから「考える人」を、

歩く
見る
座る

 

歩く
見る
座る

 

歩く
見る
座る

 

歩くうちに
歩く理由が彼方へと消える
見るうちに
見たいものが見えなくなる
そこで地べたに
どっこいしょと座る

 

夕闇が迫る
ホームというかたちがあっても
限りなくホームは遠い
還ることばの場処がない
もう立ち上がれない
気力が戻らない
座ったまま石のように固まる
意志のない石となる
彫刻のポーズとなる
考えるふりして
ロダンとなる
考える人となる

 ワシオさんは優れた詩人ではなかった。てか、むしろ下手な詩人だった。『ギャラリー』7月号に名古屋覚さんが書いていた。かつての座談会でのワシオさんの発言について、本江さんが「学がないよね」と名古屋さんに感想をよこしたと。
 名古屋さんは本江さんについても、同じ誌面で書いていた。ある年のVOCA展のシンポジウムで別の選考委員と意見の対立めいたものが生じた。シンポジウムが終わったとき、本江さんが名古屋さんに「タテハタって本当に〇〇だね」とささやいたと。〇〇はもちろんバカだろう。本江さんは東大出身だった。東大の同級生に編集プロダクションを経営していたO田さんがいた。O田さんが肺がんで亡くなったあと、銀座の画廊で本江さんに会ったとき、O田さんが亡くなったのを御存じですか? と訊いた。知らなかった、私たちはグループが違っていたので一切交流がなかったから、と言われた。本江さんはグループと言ったが、O田さんはセクトと言っていた。O田さんは本江は頭が悪いんだとも。O田さんや本江さんのように頭が良い人達はそのことを価値の重要な基準に置きがちだ。だからけなす時はあいつはバカだということになる。
 名古屋さんとは画廊で会ったときに挨拶をしたくらいだった。舞台俳優の名古屋章の甥にあたることは知っていた。叔父さんが亡くなったあと、甥はギャラリーQで名古屋章遺作展を企画した。叔父さんの絵は下手だった。
 『ギャラリー』8月号に名古屋さんの絶筆?が載っている。ステージ4の膵臓がんだが、抗がん剤は辞退し、痛みおよび物理的障害のみを緩和または排除し、運を当てにして細々と生きる方針を決めた。51歳でステージ4の膵臓がんで、抗がん剤を使用せず緩和ケアだけでいくと、どうなるか。ささやかな実験が進行中である。
 本江さんの突然の死はネットに相当数の追悼をあふれさせた。その陰に隠れたかワシオさんの死に触れた書き込みはほとんどなかった。誰かがワシオさんと名古屋さんの悼辞を書いてくれないだろうか。本江さんについてはいずれ大勢の人が書くだろうから。

 

 

「福岡伸一の動的平衡」で語られた獲得形質の遺伝

 朝日新聞に連載されている「福岡伸一動的平衡」というコラムに獲得形質の遺伝について書かれている(2019年8月8日朝刊)。最初に「獲得形質は遺伝しない」。これは現代生物学の基本的原則である。しかしこれが、だった、と過去形に書き換えられつつある。と書いている。
 線虫の一種が危険な緑膿菌を食べて死ぬ間際に卵を産み落とし、この卵から生まれた線虫は緑膿菌を危険とみなして回避した、という。福岡は書く。

 経験の伝達にはある種のRNA(リボ核酸)が関与しているらしい。親世代の獲得形質が、微小な情報粒子に乗って、生殖細胞に伝達されている。親世代の「獲得形質は遺伝する」のだ。まだわからないことは多いが、大きなパラダイム・シフトは起きる予感に満ちている。

 これが本当ならとても面白いのだが、福岡伸一はちょっと眉唾な一面があるから素直には聞きがたい。獲得形質の遺伝はともかく、定向進化の方がありうるのではないだろうか。現代進化論は定向進化を否定しているけれど。キリンの首が長くなり、馬の指が減っていったこと、それらを定向進化で説明する魅力を否定しがたい。
 福岡伸一は、また過剰にフェルメールに入れ込んでいる。個人の趣味といえば何でもいいが、有名人が声高に語ればそれなりに影響力があるだろう。茂木健一郎もウォーホルの巨大なモンローの作品に対して神の降臨だなどとオーバーなオマージュを捧げていた。いささか目に余ると言いたい。(もう言っているけど)。

 

 

半藤一利、塚本やすし・絵『焼けあとのちかい』を読む

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 半藤一利塚本やすし・絵『焼けあとのちかい』(大槻書店)を読む。半藤の書いた絵本、子ども向けの本、50ページ未満の薄い絵本に感動した。
 半藤は89年前に東京向島で生まれた。小学校5年生のとき、日本が英米と戦争を始めた。その後の具体的な戦況は語られない。物資が欠乏するようになり、動物園のライオンやゾウなど猛獣が殺され、町から若い男の人がいなくなり、人々から笑顔や笑い声が消えていった。母と弟たちが田舎へ疎開していき、半藤少年は父と二人残された。防空壕が作られ、そして3月10日の未明に突如B29の編隊が東京の下町を襲った。
 半藤少年は父と逃げ惑う。猛火に追い詰められ中川を渡る平井橋で行き場を失い、下を通りかかった船に拾われる。しかし、川の中の人を助けようとして川に引き込まれる。ようやく水の上に顔を出した半藤少年は別の舟に助けられる。空襲が襲ったときから船に助けられるまでの描写が迫真的で素晴らしい。あれから74年も経っているのにこの生々しい記憶は何だろう。それほどまでに強烈な体験だったのだろう。夜明けに家に帰りつくと家はあとかたもなく焼けてしまっていた。そこで父と再会する。半藤少年の顔は煤で真っ黒だ。
 その次の見開きページは茫然とした半藤少年の顔が大きく描かれ、言葉は何も書かれていない。次の見開きページに焼き尽くされた東京の航空写真を背景に東京空襲の概略が書かれている。334機のB29が飛来し、1670トンの焼夷弾を落とし、10万人以上の人が殺されたと。その5か月後にようやく戦争が終わった。
 途中、戦争が始まって2年後に半藤少年の家に小学校の同級生だった民ちゃんという女の子が訪ねてくる。工場で作ったという戦車のおもちゃをくれるという。半藤少年がおどけて「オー、サンキュー」というと民ちゃんは何とも言えない寂しそうな眼をした。「それは上の学校へ行けなかった悲しみのように感じられました」。その民ちゃんも空襲で亡くなった。
 最後の見開きページに89歳の半藤の顔と共に、大きな文字で「戦争だけは絶対にはじめてはいけない」と書かれている。
 塚本やすしの絵もとても良かった。

 

 

焼けあとのちかい

焼けあとのちかい

 

 

 

コバヤシ画廊の太田三郎展「折鶴焼」を見る

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 東京銀座のコバヤシ画廊で太田三郎展「折鶴焼」が開かれている(8月17日まで)。太田は1950年山形県生まれ。1971年に鶴岡工業高等専門学校機械工学科を卒業している。1980年よりシロタ画廊をはじめ個展を多数開いている。
 今回のテーマは「折鶴焼」。長崎原爆資料館に寄せられる数多くの千羽鶴は1年間展示された後古紙として回収されてリサイクルされるが、再生紙に利用されるもの以外は廃棄される。太田は長崎県波佐見高校の生徒を対象にしたワークショップで、捨てられる千羽鶴を利用した作品制作を提案したところ、折鶴を燃やした灰を釉薬にした陶芸作品をつくろうということになった。
 そして灰を釉薬に使ったA5サイズの陶板づくりに取り組んだ。切手シート状に構成した作品には生徒の氏名や学年、制作意図を記してある。その陶板を撮影し今回の切手シート作品を制作した。太田の「POST WAR シリーズ」の12作めになる。

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     ・
太田三郎展「折鶴焼」
2019年8月5日(月)-8月17日(土)
11:30-19:00(最終日17:00まで)8/12、13、14日休廊
     ・
コバヤシ画廊
東京都中央区銀座3-8-12 ヤマトビルB1
電話03-3561-0515
http://www.gallerykobayashi.jp/