抽象絵画の接地について

 今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』(中公新書)に次のような指摘がある。

 認知科学では、「記号接地問題」という未解決の大きな問題がある。「ことばの意味を本当に理解するためには、まるごとの対象について身体的な経験を持たなければならない」。AIが記号「〇〇」を「甘酸っぱい」「おいしい」という別の記号(ことば)と結びつけたら、AIは〇〇を「知った」と言えるのだろうか? という問題だ。これは、「記号から記号へのメリーゴーランド」に過ぎない。記号接地問題を提唱したハルナッドは、少なくとも最初のことばの一群は身体に「接地」していなければならない、と指摘した。

 これに倣って言えば、抽象絵画にも「接地問題」があるのではないか。つまり、抽象絵画も丸ごとの造形ではなく、どこかに具体的な事物と接地していなければならないのではないか。

 野見山暁治の絵画も一見抽象的でありながら、どこかに具体的な事物との接点を持っていた。山口長男も画面からは風景を感じさせる。対して菅井汲の画面は記号の展開からできていて、事物との接点が感じられない。ミニマルアートを展開させた辰野登恵子は接地に失敗し、最後は優れた色彩感覚でようやく作品を完成させたが、十分な展開はできなかった。

 中津川浩章も浅見貴子も抽象から具体的なものの描写に移行してから画面が豊かに完成度が高くなった。しかし二人とも抽象画の分類に入れられるように思うが。本日が最終日だったノイエ・エクステンドの藤澤江里子展に出品された「山水画のように」は題名のように藤澤の画面に山水のイメージが表れていたが、藤澤の到達した傑作だと思う。

 これらの考察はほとんどメモ書きに過ぎないが、今後少しでも発展させることができれば良いのだが・・・