『大江健三郎 柄谷行人 全対話』を読む

 『大江健三郎 柄谷行人 全対話』(講談社)を読む。副題が「世界と日本と日本人」、6月に出版されたばかりの新しい本だが、対談を行ったのは、1994年と95年と96年の3回、もう20年以上前になる。まえがきで柄谷が「読み返してみると、別に古びた感じはしなかった。むしろ、当時は予感でしかなかったような未来が現実化しているように感じられる」と書いているが、まさに現代を論じているような生々しさがあった。
 最初の対談は1994年に行われた「中野重治のエチカ」と題するもので、中野重治をめぐって話された。二人とも中野重治を高く評価している。

大江  (……)僕としてはこれまでの生のなかで、ある人の詩を10篇ほど暗唱してしまった、という詩人が何人かいます。例えばブレイク、イェーツ、オーデン、それに三好達治とか、萩原朔太郎、そして中野重治です。そういう大切な詩人としてまずあり、それから、彼の小説の細部が非常におもしろくなった。エッセイも一々おもしろかった。

 柄谷が、中野は道義的な廉直とか、そういうことだけの人ではないと言い、認識が切り離せない形であった人だと思うと言う。スピノザの『エチカ』で言えば、中野は倫理性と「知る」ことを切り離せないと考えていた人だと思うと。それを受けて、大江は中野について、道徳と認識とどちらを優位に置くかというと、認識を優位に置く人だと思うと言う。

大江  (……)志賀直哉という一つの象徴が現れて、それこそ天皇的な存在となった。志賀直哉は散文として最大の認識力をもつ文章を書き、生き方は廉直であり、その認識と廉直とは彼の文体に明らかだという一種の信仰ができた。「文は人である」の日本的な解釈が生じたわけです。そのエピゴーネンたちもたくさんいます。
 では中野重治志賀直哉はどこが違うか。僕は二人とも文章家として一流の人だと思います。そしてそれぞれの認識の仕方を表現する文体も発見した。二人とも人間的魅力がある人でしょう。しかし、中野は、自分が間違うと思っていたのに対し、志賀直哉は自分が間違わないと思っていたのじゃないかと思う。

 2番目に置かれている対談は1996年のもので、「戦後の文学の認識と方法」と題されている。柄谷が、岡倉天心はアジアや日本の普遍性を提示するにあたって美的な視点からやったという。

柄谷  (……)戦後においても、日本文学を評価する人たちは、すべてそれを美的対象として扱っている。恐らく大江さんの作品は、その中で唯一の例外です。僕は、ある意味では、安部公房も美的対象だと思います。つまり、普通の人間が生きているような感じがしない。それは日本というイメージにうまく合うんですね。彼らは日本に、普通の人間が生きて考えているというようなことを認めたくないんですよ。中上健次のフランスにおける評価も、まったく美的対象としてですね。僕は、そこに非常に問題があると思います。
 西洋人が、小説家を選んで翻訳し、紹介したとしても、それが美的対象としてであるならば、だめなんだと思います。たとえば我々がフランス文学やドイツ文学、英文学を読むとき、必ずほかのものも読んでいます。哲学も読む、社会学も読む。文学だけが存在していることはないと思います。しかし、西洋人が日本のことを読むときは、文学だけを選ぶ。そうすると、その文学は、日本の文脈で持っていたような意味を失うと思うんです。それは彼らにとって、美的対象になるということです。

 大江が、安部より三島由紀夫についていえばもっと明確になると言う。柄谷が明確すぎるから言わなかったと答える。

柄谷  僕はアメリカの大学で定期的に教えていますが、必ず丸山眞男を読ませます。それから、坂口安吾の『日本文化私観』を読ませます。これは出版されていないもので、いい翻訳ともいえないんですが、それでも、これはすべての学生が、丸山眞男近代主義に反撥する人でさえ、衝撃的に受けとめます。それは、この評論が、ブルーノ・タウトに対して書かれていて、いわば美的対象としての日本という表象を一挙に粉砕するからです。と同時に、普通に生き、考え、悩む人間がいるという当たり前のことを、見事に示しているからです。

 大江が、本当に文学が必要で意味ある時代に自分が引っかかっていた、それを信じて作家活動をしていたのは、『万延元年のフットボール』のころで終わりじゃなかっただろうかという気持ちがある、と言ったことに対して、柄谷が、あれは、まさに万延以来の日本の近代のある種の総決算だったんじゃないかと思う、と返し、

柄谷  (……)大江さん以降の作家で二人取り上げると、たぶん、中上健次村上春樹になると思うんですが、中上健次はフォークナーの影響を受けたことは事実だけれども、もっと前に、『万延元年のフットボールの』の影響を受けています。彼の『枯木灘』は、中上版『万延元年のフットボール』です。村上春樹の『1973年のピンボール』は、明らかに、『万延元年のフットボール』のパロディですね。つまり、大江さん以後の二人の代表的な作家が、『万延元年のフットボール』から始めていること、それを何とか別の形でやろうとしたこと、さらに、大江さん自身が『懐かしい年への手紙』でそれについてあらためて書かれたこと――、そうやってみると、この作品が一つの分水嶺をなすことは明らかだと思います。

 3番目の対談は1995年に行われた「世界と日本と日本人」と題されたもの。これも面白かったが詳細は省く。大江の小説を読み直し、柄谷をもう少し読んでみようと思った。
 巻末には二人の2017年までの詳しい年譜が37ページ分も付いている。