山下清『ヨーロッパぶらりぶらり』を読む

 山下清『ヨーロッパぶらりぶらり』)を読む。指導する式場隆三郎が医者の団体旅行と一緒に山下を連れてヨーロッパ旅行をした体験記。割合まとまった文章なので式場が手を入れたのだろうと思ったが、式場の「あとがき」を読むと、式場は校正刷りで初めて眼を通したとある。しかし、「編集その他は私の弟の俊三がやってくれた」とあるから、式場俊三が手をいれたのかもしれない。解説の赤瀬川原平も、

 聞くところによると、山下清の原文というのはこういうふつうな改行とかはないもので、マルもテンもカッコもなく、それこそ本当のずるずるで埋め尽くしてあるのそうだ。それでは読者も読みにくかろうというので、関係者の方がテンやマルを入れてあるていど読みやすくしてあるのだそうだ。

と書いている。それでも山下の特異な発想や奇妙な考え方はよくわかるので十分面白かった。本書から少し引いてみる。

ローマの町で一ばん目についたのは、裸のちょうこくといろんな噴水だった。ボルゲーゼというところへいったら、裸のちょうこくがずらっとならんでいて、まるで裸行列のようだった。どうしてすっぱだかのちょうこくをならべているのかときいたら、ちょうこくをつくる人は、男や女のきれいな姿をあらわしたかったので、人間のいちばんきれいな姿は裸にならなければわからないのです。
 それならきれいな姿をもった男や女はいつも裸でいればいいので、ヨーロッパでどうして裸で町を歩いてはいけないかというと、ひとにはきれいな裸ときたない裸があって、両方が裸になればきたない裸がそんをするので、きたない裸の人でも服をきればきれいにみえるので、みんなを公平にみせるために裸を禁止しているのです。きれいになるのを気にしなければ、裸になりたい人は裸になればいいので、かぜをひきやすい人は服をきればいいので、ぼくはその方がめんどうくさくなくていいと思う。

 確かに服を着れば裸体の美醜は分からない。裸を見せるのは家族とか恋人に限られるから、ふつうは服を着た状態で判断される。美しい着衣で人前に出ればそれが他人にとっての評価基準になるから、美しい裸体をしていなくても十分だと思えるのだが・・・
 何か話がずれてしまった。山下清は人並み優れた画像記憶の能力を持っていると聞いていたから、ひと眼見れば風景を覚えてしまって後日正確に再現できるのだと思っていたら、ゆっくりしっかり時間をかけて見て覚えるのだと知った。画像記憶の優れていることに変わりはないけれど。



ヨーロッパぶらりぶらり (ちくま文庫)

ヨーロッパぶらりぶらり (ちくま文庫)