田淵安一「イデアの結界」を読む

 画家田淵安一のエッセイ「イデアの結界」(人文書院)を画家の書いた軽いエッセイだと思って読み始めたが、これが難しくて驚いた。副題が「西欧的感性のかたち」という。改めて著者の略歴を見ると、東京芸大出身ではなく、東京大学美術史学科卒業となっていた。学者だったんだ。いや画家への道を親に反対されて妥協して進んだのではなかったか。やはり画家への道を親に反対されて芸大(東京美術学校)の師範科へ進んだ小原泫祐(若栗玄)さんのように。
 本書の1/3を占めるのが「ヒルデガルドの幻視」という章で、11世紀末のドイツの貴族の家に生まれたヒルデガルドは、8歳から修道院で教育を受け、のちに修道院長になる。彼女は少女時代から何度も幻視を体験し、それが教皇参列の会議で奇蹟と認知された。ヒルデガルドの幻視像は鮮明で、神や天使を見ているという。また「わたくしが観じておりましたお姿のみ胸の中央に、みるもふしぎな円輪が現れました」と書いている。その円輪を田淵は同心円だという。同心円の構造を持つ宇宙像であると。
 これを読んで、田淵が描いた「ヒルデガルドの園」や「世界図No.2」のモチーフが少し分かった気がした。

ヒルデガルドの園ー五つの花

世界図No.2


 読売新聞に連載されていた芥川喜好の「絵は風景」(1999年8月22日)で、芥川の質問に答えて、田淵安一が語っている。

 ブルターニュの光でしょうか。パリからアトリエを移して12年になりますが、空が真珠色のフィルターを通したような明るさなんですね。半影というか、光でも陰があり、陰でも明るい。すべてを白と黒に分けてしまう地中海の光とは全く違う。窓から見る海の砂の明るさも含め、そうした自然が無意識の底まで浸透して再び浮上してくる。そこにイメージがわく。長い時間がかかります。ようやくこの4、5年ですか、1年に何回かは絵の中から光が出てくる感じになってきた。絵の具の色ではない、それがどこかですーっと光に変わる。光とは単なる光線のことではない、自分の中のものだ、形而上学的なものだという思いはますます強くなります。絵かきというのは、終わりごろになると皆、光のことを言い出すんですよ……僕もですけど。

 田淵の色は、共にフランスで過ごしながら12年間の滞在で帰ってきてしまった野見山暁治の色や、やはり何年もしないで帰ってきた三岸節子の色とは違う。乾いているのだ。田淵の乾いた色に比べれば、野見山も三岸も湿った色だと思う。