筑摩書房のPR誌「ちくま」に連載されているいつも過激な発言の佐野眞一の「テレビ幻魔館」、4月号は「追悼・藤田まこと」だった。
バンクーバー冬季オリンピックがやっと終わった。深夜から早朝まで試合のもようを実況中継するテレビのおかげで、政治とカネの問題で手前勝手な理屈を懲りずにこねる小沢一郎の悪相を見ないで済んだのはありがたかったが、相変わらずとらぬ狸の皮算用でメダル獲得数の予想ばかりする情報番組にはうんざりだった。(中略)
上村愛子が出場した女子モーグルでも、試合前に流れてきたのは、あれだけ血のにじむような練習をしてきたのだからメダルは確実と叫ぶアナウンスだけだった。やれやれ、テレビはモーグルまでスポーツ根性ものにしちゃうのか。残念ながら4位に終わった彼女を責めるつもりは毛頭ない。それどころか、試合後のインタビューのハンサムな受け答えを聞いて、むしろ彼女に好感をもった。
遠慮なく言ってしまえば、モーグルなんて所詮遊び人のスポーツじゃないか。それに全国民あげてメダルを期待しているかのような報道をする方がどうかしている。12年前の長野オリンピックを思い出してほしい。あのとき女子モーグルで予想外の金メダルをとったのは、里谷多英という茶髪のイケイケ娘だった。
冬季オリンピック史上初の日本女子金メダリストとなった彼女が、その後、六本木のクラブで泥酔してご乱行におよぶ持ち前の身持ちの悪さを発揮したとき、それでこそホンモノの「不良娘」だと喝采を送りたくなった。彼女のいかがわしいふるまいこそ、今回の集団ヒステリー的オリンピック報道より、ずっと健康的ではないか。
スノーボードにラップシンガーみたいなドレッドヘアで出場した國母和宏の服装問題にも、同様のものを感じる。マスコミはこぞって彼の「腰パン」ファッションを批判したが、私にいわせれば、スノーボードも服装に目くじらを立てるような立派なスポーツではなく、いわばヨタモンの遊びに毛が生えた程度のスポーツである。
と、手厳しい。エッセイはこの後朝青龍と相撲協会問題、藤田まことと玉置宏に対する暖かい追悼文へと続いている。
朝青龍のような比類なきヒール役や、藤田まことみたいな不世出の名役者がいなくなっても、日本のテレビはそのはかりしれない損失をあまり惜しむことなく、大政翼賛会的オリンピック報道にうつつを抜かした。
テレビはただの現在に過ぎず、またバカか、バカになりたいときしか見る価値のないメディアだという。そう言われてしまえばそれまでだが、あーあ、こんな国辱的空騒ぎは、どんバカでももう金輪際見たくない。
いたって過激な発言だが、私も佐野眞一の主張を98%支持しよう。