司 修『戦争と美術』を読む

 司 修『戦争と美術』(岩波新書)を読む。ちょうど23年前に発行された本で、私も出版されてすぐ読んでいるはずだ。今回再読して、当時ここまで良い本だとは理解できなかったのではないかと思った。
 最初にナチスに協力してその宣伝用記録映画『意思の勝利』を作り、ついでベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』を作った映画監督レニ・リーフェンシュタールが取り上げられる。戦後、レニは司法公聴会ナチスの信奉者だったにすぎないと判決され、裁判でも、政治宣伝活動はしなかったと無罪判決された。レニの章の最後で司はこう書く。

 レニの芸術家としての美への信奉と、ナチズムとの関係は(……)、戦争画を描いた多くの画家に共通したものが見られますが、レニの場合、世界中になかった記録映画という分野をつくり出しました。日本の戦争画から生まれたものは、芸術家の奢りと、「無智な大衆」より劣る精神の貧弱さでした。そのような作品(大東亜戦争画)が芸術として評価されてよいはずがありません。僕は、レニの、世界初の芸術的価値にさえ疑問を消し去ることが出来ないのです。

 1938年(昭和13年)には、藤田嗣治石井柏亭、中村研一らは軍の委嘱で漢口攻略戦に従軍して、すでに戦争画を描いていた。1942年に大東亜戦争美術展が開かれた。そこに参加した画家たちは、中村研一、藤田嗣治、向井潤吉、小磯良平猪熊弦一郎宮本三郎、鶴田吾郎等々だった。また戦争画に協力しない画家たちに対しては、軍部から圧力がかけられた。藤田は先頭に立って協力し、「アッツ島玉砕の図」「サイパン島玉砕」など技術的にも高い、ある意味悲惨極まりない作品を制作した。司はこれを、死を美化しなければ国民を納得させられないまでに敗戦色が濃くなっていて、敵愾心を燃えたたせて戦意高揚をはかったのだという。
 当時戦争協力一辺倒だった美術界にあって、松本竣介は一人抗議文を書いた。陸軍報道部の軍人3人と美術批評家1人の座談会記事「国防国家と美術――画家は何をなすべきか――」に対して、松本は「生きている画家」という反論を書いた。逮捕も覚悟の上だっただろう。
 戦争協力一辺倒だったと書いたが、松本も属していた新人画会は戦争とは関係のない絵を描いて発表していた。戦争中も銀座の日本楽器の画廊や資生堂でグループ展を開催していた。メンバーは、靉光、麻生三郎、井上長三郎、糸園和三郎、大野五郎、鶴岡政男、寺田政明らだった。彼らは戦後自由美術の中心メンバーとなった。司もそれに参加していく。
 後年、司は『芸術新潮』に「気まぐれ美術館」を連載している洲之内徹と一夜語り明かす機会を持った。洲之内は松本を「抵抗の画家」と呼ぶことに疑問を呈する。松本を「しゃっちょこばったタテマエ論者」と決めつける。その洲之内は戦前左翼運動で警察に捕まり、転向して満洲関東軍の手先を務めていた。戦後になって体験にもとづいて書いた小説に、捕虜を冷酷に殺す主人公が描かれている。
 それらを踏まえて司は書く。

 松本竣介への『抵抗の画家』批判は、洲之内が出来なかったことへの恨みが混じっているのと、人間の掟に従わずに行った洲之内の戦争行為から見る、松本竣介の善人ぶりが気に食わなかったのでしょう。
 洲之内の絵を見きわめる眼の鋭さは彼の体質から要求される美的感覚にしたがってのことであろうと思います。そこには洲之内の転向問題が呼び覚まされ、転向による苦しみが絵画に関係することで癒やされ、埋もれた画家の発掘に繋がったのだと思います。しかし絵画を見る良質な眼のうら側に、侵略行為の手先として生きた洲之内が存在することを抜きに彼の美術批評を読むわけにはいかないのです。

 優れた戦争画批判論だと思う。8月に相応しい読書ではないだろうか。



戦争と美術 (岩波新書)

戦争と美術 (岩波新書)