瀬戸内晴美「かの子撩乱」がすばらしい

 嵐山光三郎「追悼の達人」(新潮文庫)に岡本かの子にあてた一章がある。夫の岡本一平は追悼文でこう書いた。

 かの子よ、僕はお前が眠ってから七八日は立つ力が無かった。涙ばかりを流していた。お前はふだんよく、ダンテの神曲中の乙女の、ベアトリーチェの導きの話をした。僕はそれ等によってお前と必ず逢える自信を得て、二人を距てた生死の障壁を突破した。かの子よ、今度覚めたらまた逢おうなあ。仲良くお互いにまた勉強しようなあ。

 だが嵐山は続けてこう書く。

 しかし、世間の人々には、このあまりに切々たる追悼はかえって奇異にうつった。かの子は無知傲慢な性格で、嫌われ者であった。太ってブヨブヨの贅肉がつき、厚化粧をしてギンギラの衣装を身につけ、その容貌怪異が目立っていた。十本の指に八つの指輪をつけてのし歩く悪趣味は、おぞましい化物女として世間の目に映っていた。

 さらに、

 かの子は大地主の長女として生まれ、多くの従僕にかしずかれてわがまま放題に育ち、跡見女学校時代は級友から「蛙(かわず)」と呼ばれていた。そのころから「女子文壇」に歌や詩を投稿しており、筆名は野薔薇であった。蛙に似た娘が野薔薇と名乗るのだから、同人仲間は驚いて目を見合わせた。

 さらにさらに嵐山は書く。

 子(幼児のうちに死んだ豊子、健二郎)があいついで死ぬと、かの子は「夫一平との夫婦関係を断つこと」を誓い、それを本当に実行した。ときに、かの子28歳であった。(一平と三角関係の共同生活をした若い学生)堀切茂雄が肺を病んで死ぬと、慶應病院の医師新田亀三と恋におちいり、亀三も家に同居させた。さらに垣松安夫(終戦後の島根県知事)を弟といつわって家に住ませた。一人の夫と二人の恋人と暮らすという異常生活は、かの子が死ぬ2年前まで続いた。かの子が絶世の美女であるならともかく、白粉をぬりたくった厚化粧の蛙顔である。それがなぜ、このような生活ができたのであろうか。

 生前、岡本かの子林房雄川端康成からは高い評価を受けていた。林房雄はかの子は漱石、鴎外につぐ大作家とまで言っていた。しかし谷崎潤一郎の評価は残酷なほどだった。

 かの子は兄の同級生である谷崎に近づこうとしたが、谷崎は徹頭徹尾、かの子を嫌った。谷崎は、三島や武田泰淳にむかって、「ぼくはあそこの家(大貫家=かの子の実家)へも泊ったり何かしたんだけれども、嫌いでしてね、かの子が。お給仕に出たときも一言も口きかなかった」と言い、「じつに醜婦でしたよ。それも普通にしていればいいのに、非常に白粉デコデコでね、着物の好みやなんかもじつに悪くて」と、ぼろくそである。「跡見女学校第一の醜婦という評判だった」とも言っている。谷崎のかの子への嫌悪は、かの子の容貌に対してだけでなく、存在そのものに対する生理的なものであった。

 こんなことを読まされれば誰だって、岡本かの子に対して好感を持てるはずがない。それではなぜ、かの子は夫と二人の若い恋人にかしずかれたのだろう。それで瀬戸内晴美「かの子撩乱」(講談社文庫)を読んでみた。吉野信子は生田春月夫人の花世から岡本かの子を紹介される。

 この路地の奥の低い地面の小さな家は外より早く家うちが暗くなる。花世さんが立って電灯のスイッチを入れた時……縁の外に足音が軽くひびいて障子に影がさした。「あっ見えられた」花世さんは岡本夫人の来訪を迎えて縁に出た。やがて一人の女性がわたくしの前に現れた。その刹那わたくしは烈しい衝動を受けた。
 それはわたくしのかつて今まで見たことのない、あるエキセントリックな美しさともうるわしさともなんとも名づけがたい感じを与える女性が眼前に出現したからである。
 髪はその頃の形の(耳かくし)と称したものでふっくらとまんまるな顔によく似合い、そして化粧も描けるごとく念入りであったろうが、まず何よりもその印象の中心をなすものは、二つの大きく大きくまるく見張られた眼だった。まことに陳腐な形容ながらまったく濡れた大粒の黒真珠のような瞳は、時としてその顔中全体が二つの眼だけになってしまう感じだった。

 芥川龍之介からも好意的な評価を得ていた。

 龍之介の死後、小穴隆一がある雑誌に龍之介の晩年の日記にかの子のことを記し、自分の知る女人の中の誰よりも優しく聡明な女と評してあったということを読み、いっそう深い感動を覚えた。

 林房雄はかの子を絶賛する。

「日本文学の復活」という総題をかかげて始められたこのかの子論は、「岡本かの子森鴎外夏目漱石と同列の作家である」というショッキングな冒頭の句から始まっている。
「この三人の作家は共に文壇の中からは生まれなかった。「文化」の中から生まれた。小説の筆をとつた時には成人であった。それぞれ他の文化部門に於て一家を成した後に小説の筆をとつた。この三人の作家は東洋の教養と西洋の文明を渾然と身につけてゐる。東西両洋の文化を日本という微妙な一点に結んで他の作家の及び難い高さに達した」と絶賛の筆をすすめ、(後略)

 かの子が跡見女学校で「蛙」とあだ名されたのは、大きな瞳で黙ってじっと相手を見るからだったという。醜いからカワズと呼ばれたのではなかった。瀬戸内晴美(寂聴)の評伝はすばらしい。湯浅芳子を描いた「孤高の人」も優れたものだったが、「かの子撩乱」もよく調べられた愛情のこもった良い評伝だった。
 しかし、このように両親と母親の恋人の男二人と5人で20年近くを暮らした岡本太郎の精神が素直に正常に育ったとは考えにくいのではないだろうか。岡本太郎が秘書であった岡本敏子と実質的に夫婦でありながら戸籍上は養女としたある種異常な選択と、この生育環境は何か関係があるのではないだろうか。夫婦というものに対する根源的な不信のようなものが。


瀬戸内寂聴「孤高の人」は湯浅芳子の優れた伝記文学だ(2007年1月14日)

かの子撩乱 (講談社文庫)

かの子撩乱 (講談社文庫)

追悼の達人 (新潮文庫)

追悼の達人 (新潮文庫)

孤高の人 (ちくま文庫)

孤高の人 (ちくま文庫)