夢に現れた見知らぬ人

 藤岡喜愛「イメージの旅」(日本評論社)に藤岡と柴谷篤弘の対談「イメージの旅」が収録されている。そこから引用する。

藤岡  ふだんみる夢というのは、覚えていない。目をさましたとたんに忘れてしまう。
柴谷  僕はゆうべ眠れなかったけれども、そのときの夢というのは、きのうの対談の変形したような、なんか一つの主題のバリエーションのような、非常にいやな夢でしたね。だいたい僕は、旅行に出る夢が多いんです。見知らぬ土地へいって、見知らぬ人に会って、生まれてはじめての意外な経験をするような夢が多い。それをかなり覚えているわけです。
藤岡  それはすばらしい。覚えていたらいちばん初手のやり方は、その夢のなかの人をもういっぺん思い出して、ほんとにそれが見知らぬ人間かどうかということを、自分に問うことです。もうなんぼ問うても、ほんまに見知らぬ人間やというのであれば、それはあなたの分身であると仮定したら、話がわかってくることが多いんです。というので、夢分析の相手になる臨床家のほうは、いちいち夢の意味を個々につけるんじゃないんです。そこのところが一般の人が誤解しているところなんです。イメージの自由運動と、じつは同じことをしているんですよ。「夢で見たその人のことで、だれかを思いだしますか」と聞いて「だれそれを思いだした」というでしょう、では「それについて、なにか思いだしますか」というように、ぐるぐる動かしているわけですよ。あなたの夢はこういう意味のもんです、ということはじつはいわない。ところが、アメリカの小説に出てくる精神分析の場面というのはみな、個々の意味を与える場面が出てくるでしょう、小説だから。

 夢に現れた見知らぬ人はあなた自身なのだ。