ギャラリー58の「Square展」を見る

 東京銀座のギャラリー58で第10回「Square展」が開かれている(1月21日まで)。Square展とは、「30×30mの正方形展」との副題があり、参加作家が30cm四方のキャンバス(作品)各1点を出品するもの。今回46名の作家が参加している。

 私が興味を持った作品を紹介する。

石内都

小鶴幸一

篠原有司男

田中彰

東郷拓巳

中村宏

松見知明

山下耕平

山本一樹

吉田公美

吉野辰海


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「Square展」

2023年1月6日(金)-1月21日(土)

12:00-19:00(土曜日は17:00まで)日曜休廊

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ギャラリー58

東京都中央区銀座4-4-12 琉映ビル4F

電話03-3561-9177

http://www.gallery-58.com

 

 

Stepsギャラリーの一色映理子展を見る

 東京銀座のStepsギャラリーで一色映理子展「One More Light」が開かれている(1月21日まで)。一色は1981年、愛媛県生まれ。2004年に武蔵野美術大学造形学部油絵学科を卒業し、2006年に同大学大学院美術専攻油絵コースを修了している。2005年に銀座のフタバ画廊で初個展、2012年には「シェル賞2012」木ノ下智恵子審査員賞を受賞している。最近はStepsギャラリーで個展を繰り返している。

 今回は室内の風景を描いている。薄いカーテンの向こうに幼い子供が立っていて、柔らかい光がカーテンに差している。また、窓から吹き込む風がカーテンを膨らませ、カーテンを透かして見えるガラス窓や、風で膨らんだカーテンの半透明感、カーテンの重なる部分の淡い色彩。一色はそれらの微妙で繊細な光を絶妙な描写で再現して見せてくれる。光のコントロールに卓越しているのだ。


 画面に描かれた幼い子供は2歳だという。育児を続けながらの制作は大変だと思うが、頑張って制作を続けていってほしい。

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一色映理子展「One More Light」

2023年1月9日(月)-1月21日(土)

12:00-19:00(土曜日17:00まで)日曜休廊

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Stepsギャラリー

東京都中央区銀座4-4-13琉映ビル5F

電話03-6228-6195

http://www.stepsgallery.org

 

 

 

塚本豊子『画廊と作家たち』を読む

 塚本豊子『画廊と作家たち』(新潮社図書編集室)を読む。長く東京小金井市で双ギャラリーを主宰していた塚本が、昨年同ギャラリーの閉廊にあたり、30数年前の吉祥寺での開廊から閉廊までの主な展覧会を振り返って記録している。

 初期には菅木志雄や森村泰昌李禹煥、関根伸夫などを取り上げた。塚本は以前、『画廊と日常』を発行している。そのためか本書では、開廊20周年記念展(2005年)あたり以降を紹介している。

 初めに多田正美、島州一、伊藤誠、吉澤美香、山田恵子など13人の個展が取り上げられる。続いてグループ展として、「20周年連続展」、「25周年展」、「予告篇」、「本篇」、「色(不基準=シルエット)」などが割合丁寧に紹介されている。

 優れた画廊だったろうことが推察できる。ただ私は一度も訪問したことがなかった。小金井市の住宅街の中にあり、少々アクセスが不便だったことが理由だった。

 画廊主が自分の企画したグループ展や個展の作家たちを紹介しているが、展示写真は決して多くない。難解な現代美術を短い文章で紹介しているが、それは分かりにくい。せめてモノクロであっても写真が豊富に使われていればより分かりやすかったのではないか。

 読んでいて何か不満なものを感じていた。それは当たり前だが、自分の企画した展示を紹介しているので、それらに対する批判がないことだ。自分の画廊の作家たちを批判することは難しいだろう。でも、その姿勢は自画自賛と見えてしまうのは仕方ないかもしれない。

 ひとつ面白いエピソードがあった。最初に菅木志雄と森村泰昌を取り上げたとき、二人と一緒に食事をしたことがあった。「菅は眼を合わせようともしなかった。気まずい空気が流れていたのを覚えている。(中略)彼にとっては自分の作品、思考する方法が、絶対であり、他の作家などに興味もないのである。ましてや森村の作品を肯定するなど、とんでもないことであろう」と。

 そういえば以前久が原に個人の主宰するガレリア・キマイラというユニークな画廊があったことを思い出した。江東区猿江にはオレゴンムーンギャラリーという元ガソリンスタンドを改造したギャラリーもあった。谷中墓地近くの現代美術専門の画廊は何て名前だったっけ? 

 

 

 

若桑みどり『女性画家列伝』を読む

 若桑みどり『女性画家列伝』(岩波新書)を読む。雑誌『創文』に連載したものをまとめたもの。12人の女性画家を取り上げ、その画家の「本質をえぐる」という点を追及している。

 取り上げている画家は、シュザンヌ・ヴァラドン、アルテミジア・ジェンテレスキ、エリザベート・ヴィジェ・ルブラン、アンゲリカ・カウフマン、ケーテ・コルヴィッツ上村松園、ラグーザ・玉、山下りんマリー・ローランサンレオノール・フィニ、ナターリア・ゴンチャローヴァ。

 シュザンヌ・ヴァラドンユトリロの母、ドガは、「彼女に素描の天才があり、しかもそこには古典的精神がある」と言ったという。ただ「彼女は解剖学を知らず、人体の有機的構造を把えられず、空間の三次元的構造を欠いていた。これらは正式にアカデミーで絵を学ばなかった人間に共通の特徴である」と若桑は書く。デッサンはしばしば狂っていて、空間が把握できなかった。しかし今日の目から見ると、「三次元が把握できなかったシュザンヌの絵は、ゴーガンが主張した「色彩と平面」を主とする革新的な絵画に属しており、息子よりはるかに前衛的である」。

 エリザベート・ヴィジェ・ルブランについて、

 

……何にもまして彼女の人気は、彼女自身がまた“自分の描く人物のように”とびきりの美人だったことにある。(中略)はっきり言って、彼女の絵の中でとり上げる価値のある作品は、自分の顔だけである。おそらく、それが彼女にとってもっとも関心のある主題だったのであろう。

 

 ケーテ・コルヴィッツを若桑は高く評価する。彼女の画集が日本で最初に出たのは1950年だった。若桑の父は中学生だった彼女にこの本を与えた。「色」が好きだった若桑は黒と白の彼女の絵が好きではなかった。でも若桑が芸大生になってから、当時ほとんど氾濫しているかにみえた「自由美術展などで、進歩的、左翼的、社会主義的な主張をもった日本の画家たちの作品」の慣用句(イディオム)となったのが、ほかならぬ彼女の形態だと気付いた。

 わが師山本弘も早くからケーテ・コルヴィッツに注目していたと言っていた。

 「カールとともにいる自画像」(1942)がある。このとき夫カールはもう死んでいたが、彼女は亡き夫と共にいる自画像を描いたのである。ケーテはナチスによって画家として制作することを禁じられた。その絵について、

 

……信ずるもののために闘い、自分の才能と心情に忠実であり、全人類の幸福を願い、全人類の不幸に泣き、愛する子供をもち、ともに悲しむ伴侶をもったこの女性が、私にはうらやましい。幸福こそ人間の権利だと信ずればこそ、周囲の暗黒がはっきりと見えたのだ。幸福の追求を断念した人間が、いつわりの美しい絵を描く。

 

 ラグーザ・玉は、明治15年から昭和8年まで、夫ラグーザとともにイタリアで暮らした。イタリアのみならずヨーロッパやアメリカにおいて一等賞をとり続けた玉をイタリアは絶賛した。しかし、夫を亡くし帰国した玉に日本の美術界は冷たかった。玉の作風は西欧のリアリズムと象徴主義の結晶である。それに対して、明治の洋画家たちの多くは、フランスの印象主義か、それ以前の外光派か、あるいは折衷的なアカデミズムを取り入れたものだった。

 日本に帰国したとき、玉はただのひとことも日本語を覚えてはいなかった。

 画家になるためには専門的な訓練が必要だ。中世まで女性にはきちんと美術を学ぶ場がなかった。例外は父親が画家だった場合だけだった。父親は娘を教え、そのような条件のもとでのみ女性画家が誕生した。

 12人の画家を紹介したあとで、現代の女性作家として多田美波と対談している。さらにあとがきとして「女性はどのようにして芸術家になったか」という略史を書き加えている。

 若桑という女性美術史家だから書くことができた名著だと思う。女性画家に限らず、美術に興味がある者にとって必読と言ってもいいだろう。

 

 

 

『O・ヘンリーニューヨーク小説集』を読む

 『O・ヘンリーニューヨーク小説集』(ちくま文庫)を読む。もう60年近く前に読んだ・ヘンリーの短篇集だが、本書はニューヨークを舞台にしたものを集めている。しかし、特筆すべきは訳者だろう。青山南+戸山翻訳農場 訳となっている。青山南は有名な翻訳者だが、この「戸山翻訳農場」とは何だろう。

 最後のページに訳者一覧として15人の名前が載っている。しかし青山南の名前はない。「解説」を青山南が書いていて、青山は早稲田大学でいくつかの翻訳の授業をもっていて、テキストとしてO・ヘンリーの作品を使用しているという。翻訳の授業に参加した学生が本書の翻訳者なのだった。彼等を戸山翻訳農場と名付けているのらしい。

 そして「ここにまとめるにあたって勝手に手を加えりしたのも筆者だから、訳文に対する最終的責任は筆者にある」という。

 このことは英文学の訳者として多くの小説を翻訳した大久保康雄や田村隆一を思い出す。ナボコフの『ロリータ』が最初に出版されたとき、丸谷才一が書評でその翻訳を批判した。それは大久保康雄の翻訳だったが、大久保から丸谷に直接手紙が来て、あの翻訳者は私ではありませんと書かれていた。実は大久保も田村隆一も多くの翻訳者のスタッフを抱えていて、彼らに翻訳の仕事を卸して、自分の名前を翻訳者として出版していたのだった。

 青山南は同じようなことを、こちらは「戸山翻訳農場」と名付けて出版したのだった。

 O・ヘンリーの小説は、さすがに100年前のものなのでそれなりに古く、現代の日本では物足りないと考える読者が多いだろう。