高島屋美術画廊Xの村松英俊展を見る

 東京日本橋日本橋高島屋本展S.C.本館6階の美術画廊Xで村松英俊展「with stone」が開かれている(7月4日まで)。村松英俊は1988年静岡県生まれ、2016年に東北芸術工科大学大学院彫刻領域を修了している。

 村松はバイクやメジャーなど、古い既製品(レディメイ)のパーツの一部を大理石に置き換える作品を制作している。今回もスケートボードや栓抜き、剪定鋏、テープディスペンサー、鉛筆削り、車のタイヤの破片などを一部大理石の作品として制作している。

 作家のことば、

 

気に入ったものを石にして残したい

ものの時間を止めているような、新たな時間を創り出しているような感覚

石化していくイメージ

いずれは朽ちていくもの

数千年、数万年後、石だけでも残っていたら、そのものが存在した証になれないだろうか

人が創り出したものの機能的な形や偶然に生まれた形の面白さ

自然が創り出した石が内包する時間の大きさ、どれひとつとして同じもののない唯一性

自然物である石の美しさと人が作りあげた美的な造形性

遠い未来に欠片だけでも残せたらと思う



 村松は2018年にはステップスギャラリーで個展を行っていた。高島屋の画廊Xでの個展は2019年以来2回目となる。変わった作品だが、評判がいいのだろう。

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村松英俊展「with stone」

2022年6月15日(水)―7月4日(月)

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日本橋高島屋本展S.C.本館6階 美術画廊X

東京都中央区日本橋2-4-1

電話03-3211-4111

 

 

クロスビューアーツの「植物区」を見る

 東京京橋のクロスビューアーツで「植物区」展が開かれている(7月2日まで)。参加作家は濱田富貴と吉田収。濱田は1972年福岡県生まれ、2000年に武蔵野美術大学大学院美術専攻版画コースを修了している。ギャラリーなつかではもう8回も個展をしている。

 吉田は1960年鳥取県生まれ、1985年に武蔵野美術大学を卒業し、現在は小田原短期大学教授。ルナミ画廊やトキ・アートスペースで個展を重ね、昨年はギャラリーなつかでも個展を開いている。

 タイトルの「植物区」のとおり、版画の濱田も木彫の吉田も植物をテーマに作品を作っている。版画と立体だが、植物を共通テーマにして違和感のない展示になっている。

濱田富貴

濱田富貴

濱田富貴

濱田富貴

濱田富貴

吉田収

吉田収

吉田収


 どちらも小品だが、密度の濃い空間を作っている。

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「植物区」

2022年6月13日(月)―7月2日(土)

11:00-18:30(土曜日17:00まで)日曜休廊

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クロスビューアーツ

東京都中央区京橋3-4-2 フォーチュンビル1F

電話03-6265-1889

http://gnatsuka.com/

※クロスビューアーツはギャラリーなつかの併設画廊

 

 

 

ギャラリーなつかの王麗楠展を見る

 東京京橋のギャラリーなつかで王麗楠展「増殖」が開かれている(6月18日まで)。王は1993年中国河北省出身、2016年に湖北美術学院大学漆工芸を卒業。2020年金澤美術工芸大学大学院漆工芸を修了し、現在同大学院後期博士課程在籍中。昨年ギャラリイKで日本初個展を行った。

 作家のことば、

 

私が自然と人間の精神世界の共鳴であり、自己の内的世界に芽生えた「美」を内省し、

それを乾漆技法によって漆の造形表現を探求します。


 タイトルどおり、内的なエネルギーがむくむくと増殖しているような造形だ。おそらく已むに已まれぬ内なる欲求があるのだろう。若さを感じたのだった。昨年のギャラリーKの個展では、もう少し複雑な形でややうるさかった印象があったが、今回はだいぶ刈り込まれてすっきりしている。

 乾漆技法で漆を扱ってかぶれないかと尋ねると、かぶれると言ってかぶれた腕を見せてくれた。私も子どものころ山谷を走り回ってウルシの樹に触れてかぶれた経験があるので、辛いだろうと同情した。でも以前漆の作家が慣れるのですと言っていた。

 金澤美術工芸大学大学院修了の折りには学長賞を受賞している。日本に留学してますます活躍することを期待しています。

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王麗楠展「増殖」

2022年6月13日(月)―6月18日(土)

11:00-18:30(土曜日17:00まで)

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ギャラリーなつか

東京都中央区京橋3-4-2 フォーチュンビル1F

電話03-6265-1889

http://gnatsuka.com/

 

 

 

赤瀬川原平『純文学の素』を読む

 赤瀬川原平『純文学の素』(ちくま文庫)を読む。40年ほど前に写真・エロ雑誌『ウィークエンド・スーパー』に連載したエッセイ。

 私が小学生のころの娯楽はラジオだった。ドラマのほかに寄席が娯楽の中心だった。私は落語は好きだったが漫才は嫌いだった。わざとあほなことを言って聴衆を笑わせるのが面白いと思えなかった。

 ここで太宰治の『人間失格』を思い出す。

 

 その日、体操の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざと出来るだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅飛びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上ってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁きました。

「ワザ。ワザ」

 自分は震撼しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。

 

 赤瀬川は写真・エロ雑誌のエッセイとして面白おかしいと思われることを書き連ねている。それは漫才のように過剰にあほらしいことを演技しているようだ。

 マツタケを食べてみると言うテーマでエッセイを書く。3,000円まで出してくれると言う取材費の予算で近所の八百屋にマツタケを買いに行く。でもまだ一度も買ったことがないのに「マツタケ下さい」と言えない。いったん帰宅して洋服を着替え高級な赤坂の八百屋までマツタケを買いに行く。やっと3本2,500円で買って領収書を切ってもらったが、帰宅すると肝心のマツタケをもらい忘れていたことに気づく。

 写真・エロ雑誌の読者向けに赤瀬川に面白可笑しいことを書かせようという末井編集長の企画が無理だったのだ。赤瀬川は難解だが面白いことを書けば成功するのに。

 

 

 

死ぬ前に誰に会いたいか

 先日友人二人とzoomで雑談した。その時一人の友人がいよいよ死ぬとなったらぜひ会いに来てくれと言った。私はそんな状態では誰とも会いたくないから来ないでくれ、もし最後の別れをするなら元気なうちに会いに来てくれと言った。

 その友人は元気で当分死とは縁がないように見える。かつて骨折と脊柱管狭窄症で長い間入院していたことがあった。骨折も脊柱管狭窄症も腰とかは痛むものの、頭は健康な時と変わらず、見舞いに行ったらとても喜んでくれた。

 私が見舞いを断ったのは、抗がん剤治療の経験からだった。私は食道がんと診断されてから抗がん剤治療で3回入院した。ステージ3と診断されて、がん細胞を攻撃して腫瘍を抑えるためだった。1回の入院は1週間で、入院翌日から抗がん剤を24時間点滴で入れて、それが6日間続く。退院して2週間自宅で過ごし、また1週間入院する。それを3回繰り返した。

 抗がん剤は危険な薬とかで、点滴薬を入れ替える時は必ず看護士が二人でやり、二人ともコロナの患者を看護するときのように完全防備の服装をした。点滴の薬も二人で復唱し確認していた。どうしてそんなに、と尋ねると危険な薬だからとのことだった。容量を間違えると大変なことになると。

 1週間の入院が終って退院するときはへろへろになっていた。入院する時は電車と徒歩で病院へ入ったが、退院するときは娘に介護されてタクシーで帰宅しなければならなかった。普通は入院する時が弱っていて、退院する時は元気を取り戻している。だから退院するのだが。

 抗がん剤治療の入院ではこれが逆だった。元気な状態で入院しへろへろになって退院する。抗がん剤はがん細胞を攻撃して小さくするのだが、同時に健康な細胞も攻撃されてしまう。生長する細胞が攻撃されるので、体毛の生長も爪の生長も止まる。口内炎がひどくなり、便秘や下痢も半端ない経験をする。歩行にも困難をきたす。

 抗がん剤治療の入院は3回が限度だと言われた。体が耐えられないと。その3回目の入院から退院するときは、本当に参っていた。帰宅してすぐベッドに横たわった。何も考えるゆとりがなかった。

 入院する時、ゆっくり本が読めるのではないかと何冊も持ち込んだが、そんなゆとりはなかった。

 退院したのが12月31日の大晦日で、正月3日に友人たちが浅草へ遊びにきがてら見舞いに行きたいと言ってくれた。即座に断った。友人とは言え、人と話すゆとりがなかった。家族に看病されるのが精いっぱいだった。ただただ寝ていた。3回目の抗がん剤治療から退院したこの時が最悪の健康状態だったのだ。

 この経験から、がんが悪化して亡くなる前の状態が容易に想像できた。友人とは言え、とても談笑する気分ではないと思う。だから、まだ元気なうちに会って話したいと思うのだ。

 ただ、今年の1月に亡くなった映画監督は、亡くなる1時間前まで病院で家族と普通に話していたという。そのような状態だったら、見舞いも受け入れられるかもしれない。

 冷たいようだが、私の経験したような状態では誰にも会いたくなかったのだ。

 抗がん剤治療を3回終えたあと、自宅療養を5週間行って元気を回復したところで手術を受けた。手術は食道を切り取るという大変なものだったが、抗がん剤治療の入院と異なって、体力をかなり回復して退院した。その後は一応順調に日常生活を取り戻している。抗がん剤による足の痺れという後遺症は残っているが。