入手しそこなったもの2点

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  むかし入手しそこなってほんの少し悔やんでいることがある。安室奈美恵のサインと吉行淳之介の色紙だ。

 伯母が再婚した相手は茨城県の医者だった。その伯父の娘婿Sさんがやはり医者で病院長をしていた。ある時伯母が私に安室奈美恵さんのサイン欲しかったらもらってあげるわよと言った。安室が結婚したときだった。安室の夫のSAMのお父さんが、Sさんと東大の医学部の同級生で親友とのことだった。だから欲しかったら頼んであげるわよという。でも当時私は安室に興味がなく、断ったのだった。何年か前安室が引退を表明したとき、引退公演で初めて安室のショーをテレビで見た。とても惹かれたが、もう伯母もSさんも亡くなっていた。安室もSAMと別れていたし。そんなことでサインをもらいそびれてしまった。

 私が山本弘と初めて会ったのは53年前だった。山本は画家仲間の集りに連れて行ってくれて、画家たちに紹介してくれた。山本の先輩で関龍夫さんというおじいさんの画家がいた。山本の画家仲間では一番の長老で皆の尊敬を集めていた。関さんは明治32(1899)年生まれで、山本より31歳も年上だった。その時、関さんの奥さん(美津幾さん)が私に、あなた不二さんとはどういう関係? と尋ねた。私の旧姓が珍しかったので親戚ではないかと考えたのだろう。不二伯母さんは父の姉に当たりますと答えた。関さんの奥さんは懐かしそうに、不二さんとは女学校の同級生で親しくしていて、一緒に撮った写真もたくさんあるのよと言われた。

 私の実家には不二伯母さんの名前が書かれた『葛西善蔵短編集』の改造社文庫があった。伯母さん、こんな地味な本を読んでいたのかと思ったことがあった。戦前の改造社文庫は布装の上製本で高級な印象だった。

 それから何年も経って、まず美津幾さんが亡くなり、翌年、後を追うようにして関さんも亡くなった。昭和60(1985)年4月、享年86歳だった。遺骨は開善寺に納められた。宮本武蔵の書があり庭が有名な名刹だ。関さんは一時開善寺の一角に住んでいたことがあった。そのころ田村隆一も開善寺に寄寓していて、寺や関さんのことを詩に詠んでいる。関さんは画家の井上長三郎や児島善三郎、野口弥太郎との交流もあった。

 関さんが亡くなったあと、娘さんの関節子さんと何度か文通をし、毎年年賀状を交換した。節子さんは東京の小学校の教師をしていたが、あるとき東京の教員をやめて静岡のねむの木学園へ行きますと手紙をくれた。それからはねむの木学園の節子さんと年賀状を交換していたが、ある年節子さんの娘さんという人から、母が亡くなったという挨拶が届いた。

 ねむの木学園は宮城まり子が経営しており、宮城のパートナーが吉行淳之介だった。今でもねむの木学園には吉行淳之介記念館があるという。最近になって、節子さんに頼めば吉行淳之介の色紙などもらえたかもしれないと思ったのだった。いや、吉行淳之介が亡くなってもう27年経つのだが。

 

 

泣き女と魂呼ばい

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  畑中章宏がエッセイ「わざとらしさ」で泣き女(なきめ)と魂呼(たまよ)ばいについて書いている(『図書』2021年5月号)。

 

 日本の民俗に、野辺送りや埋葬など、葬送習俗の中で儀礼的に号泣する「泣き女」、あるいは「ナキオンナ」という役割をもつ人がいた。職業的に泣く女性を葬儀に雇う習俗は朝鮮・中国など東アジアにあり、啼泣儀礼と呼ばれ、日本でも記紀に「哭女(なきめ)」の役目が出てくる。呪術的な直接行為として、号泣することで荒ぶる魂が鎮まることを意図したものでる。死者の鎮魂を目的としたものである。(中略)

 泣き女に対して、死の直後に、死者の名前を儀礼的に大声で叫ぶことにより、肉体から離れてしまった魂を呼び戻し、死者の再生を促す「魂呼ばい」の習俗もある。魂を呼ぶ際には、枕元で叫ぶほか、屋根などの高いところへ登ったり、山や海、井戸の底に向かって呼んだりするところもある。(後略)

  

 祖父が亡くなったのはもう54年も前になる。私が高校3年の夏休みだった。臨終の祖父の枕元に親戚が多く集まり、もう息を引き取るといった時だったろうか、叔母か誰かが私に祖父の名前を大きな声で呼べ、生き返るからと指示した。そんな迷信をと内心思ったので、どこかぎこちなくそれでも大声でおじいちゃんと呼んだのを覚えている。あれはこうした習俗だったのか。

 母が亡くなったのは11年前になる。長く施設で療養していたが、最後の何年かはもう意識が混濁していた。一番最後の会話は、お袋、俺が誰か分る? との問いかけに、戦争で死んだ母の兄の名前を言った。

 施設からもう長くはないとの連絡を受けて、家族と交代で病室に付き添った。病室へ着いたとき看護士さんが呼びかけてみるよう言われた。もう毎度反応がなかったけど、お袋って何度か呼びかけた。瞑ったままの瞼の下で眼が動いたような気がした。看護士さんが、声は最後まで覚えているものだからと言われた。その2,3時間あとに、看護士さんが、あら、頬の血色が良くなっているわねと教えてくれた。

 母はその翌々日に亡くなった。看護士さんが、息子さんの声を聞いて安心したのねと言った。魂呼ばいの習俗も根拠のないものではないのかもしれない。

 

 

 

過疎の村、大平集落

 新潮社の「とんぼの本」シリーズに『信州かくれ里 伊那谷を行く』という本があり、そこに「大平峠」という項目がある。大平峠は長野県の飯田市と木曽を結ぶ大平街道の途中にあり、そこに大平集落があった。それについて、

 

 なまこ壁のある大きな土蔵、太さ40センチもある欅の大黒柱、広い土間、こんな空家がずらりと並ぶ集落である。(……)かつては人馬の往来で賑わった村も大正12年、伊那鉄道が飯田まで開通すると、峠の道も衰えてその使命を終えたという。200年の歴史のある大平も農村の過疎化には勝てず、遂に昭和45年11月限りで集団離村となって消えた。

 

 その住民のいなくなった「過疎の村」大平集落に、山本弘と友人たちがスケッチに出かけたことがあった。山本に2点の「過疎の村」と題した作品がある。油彩F20号(60.6cm×72.7cm)と油彩F10号(53.0cm×45.5cm)だが、10号の制作年は1978年となっている。20号の方には制作年の記載がないが、おそらく同時に描かれたものだろう。

 住民が村を捨てて無人の荒涼とした風景が描かれている。いつもの電信柱が象徴的に描き込まれていて、人家の痕跡が示唆されている。おそらく真夏に訪問したのだろう、大きな太陽がぎらぎらと輝いている。

 わずかに引かれた斜線が平坦ではない山道を示している。山本の優れた造形力が見られる。山本さん、誰もそのことを理解しなかったけれど、あなたは偉かった。誰の承認も必要とすることなく、あなたは一人で黙々と描き続けていんだ。

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「過疎の村」20号

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「過疎の村」10号


 

 

「この土地は売り物ではありません」

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 東京渋谷区松濤に「この土地は売り物ではありません」と看板がでている割合広い駐車場(間口12m、奥行25m)がある。こんな高級市街地なのにもう何年も駐車場のままだ。なぜだろう。「本駐車場の所有者は、本駐車場を売却処分する意思はありません」と続けている。

 以下は私の推理だ。もう20年ほど前に私はこの場所を撮影していた。東急本店に続く広い通りに面して、門の中が樹木で覆われていたからだ。こんな一等地に廃墟があると驚いた。門柱に壊れかけた表札が残っていた。その名前「神道寛次」で検索すると、「20世紀日本人名事典の解説」に次のようにあった。

 

大正・昭和期の弁護士,社会運動家

生年 明治29(1896)年11月20日

没年 昭和46(1971)年2月17日

出生地 愛知県

学歴〔年〕小卒

経歴 布施辰次法律事務所で手伝いながら大正11年独学で弁護士試験に合格。12年の亀戸事件で布施弁護士らと救援活動。13年兵役を終えて弁護士となり自由法曹団に参加、福田雅太郎大将狙撃事件、京都学連事件などの弁護活動を行う。3.15事件、4.16事件の弁護に当たった日本労農弁護士団の他の弁護士と共に、13年治安維持法違反で検挙された。戦後20年自由法曹団再建に加わり、三鷹事件松川事件の弁護に当たった。この間、3年の第1回普選に労働農民党から立候補、4年新労農党の結成に参加。戦後は日本共産党から数回衆院選に立候補した。

 

  これで見ると1971年に亡くなっている。おそらくそれから無住になって、30年間で写真のような廃墟を呈したのに違いない。敷地いっぱいに樹木が繁茂してしまったのだ。なるほど30年も経てばこうなるのかもしれない。30年間も手つかずのままにされていたと言うことは、相続に問題があったのだろう。その後更地にまでして駐車場を作ったが、建物を建てるまでには相続問題が解決していないと推測できるだろう「本駐車場の所有者は、本駐車場を売却処分する意思はありません」とあるが、売却処分する意思がないのではなく、できないのではないか。渋谷区立松濤美術館に敷地の一部を接している条件の良い土地だ。何とも勿体ない話だ。

 

 

シューマンが「赤とんぼ」

 吉行淳之介のエッセイ「赤とんぼ騒動」に、山田耕筰の「赤とんぼ」のメロディがシューマンの曲から流れてきたというエピソードが紹介されている。シューマンの「ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロ ニ短調作品134」から赤とんぼが飛びだしてきたという。

 吉行がシューマンのピアノコンチェルトのレコードを求めて聴きはじめた。

 

(……)優美な曲で心地よく聞き、B面の小曲も聞いているうち、その2曲目から突然「赤とんぼ」のメロディが飛び出してきた。「日本のうた」である筈なのに、とジャケットの解説を読んだが、そのことには触れていない。

 

 それを伝え聞いた『夕刊フジ』がそのことを紹介した。

 

『赤とんぼ……シューマンから飛び出した!!』と大きな見出しがついていて、「ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロ短調134」から、どういう具合に赤とんぼが飛び出してくるかを、くわしく調べてある。『何ともロマンチックで典雅な序奏部分が終って間もなく、時間にして3分後、名手アシュケナージのピアノがポロンポロンとおなじみの「赤とんぼ」の曲をかなでる(吉行註、前半部のみ、つまり、夕やけ小やけの赤とんぼ、のところまでの繰返しで、赤とんぼの「ぼ」だけ音が違う)』と書き、『つづいてフルートで2回、6分後また、7分後にはやや変奏されて、そして9分後には、弦でまぎれもなく4回、12分後ピアノで4回、15分の演奏時間に18回』とは、くわしく調べたものだ。

 

 吉行の聴いたのはアシュケナージのピアノのようだが、マレイ・ぺレイア(ピアノ)、クラウディア・アバド(指揮)のCDで聴いてみた。「序奏と協奏的アレグロ ニ短調 作品134」となっていて、吉行の文章には「ニ短調」の「ニ」が抜けている。

 なるほど、赤とんぼのメロディが流れてくる。この新聞記事のあと、同じ新聞に関連記事が出て、20年ほど前、石原慎太郎が友人のドイツ人と一緒のとき、「赤とんぼ」の曲が流れると、「これはドイツの古い民謡だよ」とそのドイツ人が言い出し、「これは日本の有名な作曲家のものだ」という石原と意見が対立した。そのことを石原が随筆に書いたところ、当時存命の山田耕筰から強い抗議がきたという。

 シューマンの曲は1852年、「赤とんぼ」は1927年の作曲という。

 

 

 

シューマン:ピアノ協奏曲/他

シューマン:ピアノ協奏曲/他