久しぶりに吉田秀和の「音楽展望」が掲載された(朝日新聞、2009年7月20日)。タイトルが「観桜の記 仰ぎ見る花こそ、美しく恐ろしい」で桜の花を見てきた様々な印象を書いている。一番強く印象に残った桜が宮島の厳島神社の裏で出合った桜、二番目が紀伊勝浦の墓地の桜だったという。
吉田秀和の父方の先祖は和歌山県新宮出身、祖父の代に紀伊勝浦に移り住んだ。「その折り、新宮にあった家代々の墓地を引き払い、勝浦から那智の滝に行く街道の脇、川関という小さな丘の中腹にしつらえた墓地に新しく墓を立てた。」「新宮のは廃寺の裏のたくさんの墓で埋め尽くされた小さな丘にあった。墓地といっても、そこはらんぐい歯がいっぱいの大きな口を開けたみたいに、いろんな形の墓石が立ったり傾いたり、乱雑に入り乱れているだけのこと。」
ここに紹介されている新宮の墓地はたぶん私が今年3月に行った墓地だ。仕事で和歌山県新宮市へ行った時、時間があったので中上健次の墓に参拝した。宿泊したホテルでもらった新宮市のおおまかな手書きの観光地図を見ながら何人かの人に道を聞いて探していった。その南谷共同墓地は本当に大きな墓地だった。小高い丘の麓から登っても登っても無数の墓地が続いている。墓地の近くで働いている人たちや墓参に来ている人たちに中上健次の墓を尋ねたが誰も知らなかった。ずいぶん登ったところに石材店があり、ここでようやく教えてもらったのだった。その中上健次の墓は小振りでとても品のいいものだった。墓に刻まれた文字は中上健次の書いたものから採ったという。
そうか、新宮が吉田秀和と中上健次を産んだのか。知的に豊かな土地なのだ。
・中上健次の墓(2009年3月27日)