合気道の達人

 まず古い朝日新聞の引用から、佐川幸義(1902ー1998)について。

 会津藩の「お留め武道」といわれた大東流合気武術の奥義を伝える武道家、東京都小平市上水南町、佐川幸義(ゆきよし)師範は、ことし(1990年)7月で88歳。いまも現役として鍛錬を続け、高段者の弟子たちを自在に投げ飛ばしている。「どうしてやられるのか。あの技術は何なのか」と、投げられた弟子たち……一流の武道専門家や大学の先生たちが分析を試みているが、解明できないでいる。先生が大のマスコミ嫌いで、門人の数もごく限られ、技の切れ味は知る人ぞ知る。このほどやっと「幻の道場」の見学を許された。

 「手を使わずに投げる」「相手の力を抜いてしまう」。弟子の一人で合気道四段、剣道二段という東大病院の木村健二郎医学博士(40)に聞いた最初は、「そんなばかな……」とおかしかった。それが、3か月後に実際を見学することになった。
 佐川さんの自宅一画にある30畳足らずの道場では、上級者13人が二人ずつ組んで練習中だった。先生が姿を見せると、全員があいさつし、練習を再開した。先生は片隅のいすに座って全体を見回す。時々、技もかけて見せた。「合気は技術です。肩の力を抜かないとできない。力はひじから先に」
 玄関先で会ったときの佐川さんは、やや腰をかがめて歩く、普通のお年寄りだった。腰椎を痛めたのだという。だが、けいこ着を着けた師範は雰囲気まで一変していた。

 師範が「さあ」と立ち上がった。指名された弟子がすり足で近づく。けいこ着に手を伸ばした瞬間、師範がちょっと身を揺すると、相手はびしっと畳の上に投げつけられていた。後ろから羽交い締めにさせ、先生が体をごくわずか動かすと、弟子はまたもや強く前方にたたきつけられた。弟子は「おうっ」と顔をしかめ、頭を上下、左右に振ってショックから抜け出そうとした。
 「これができるようになったのは70になってから、常識ではできない。自分でも不思議だ。鍛錬を続けていて、気が付いたらできていた」。佐川先生は、みんなに話しかけた。
 先生に初歩の技をお願いした。当方は素人だ。立ってやると危ないというので、相対して正座する。先生が前に突き出した左右の腕先を、記者がつかんだ。「押し下げてみなさい」。記者はぐっと力を込めた。その瞬間、先生の腕は内側に返って、つかんでいたはずの記者の手をすり抜け、逆に記者の手首がつかまれていた。手首が痛いと思ったときには、反射的に自分の体が浮き上がり、すとんと転がされていた。右へ、左へ、仰向けに……。もう思うがままの方向に投げられた。

 佐川さんは、北海道で育った。父も武術好きで、道場を持っていた。11歳ぐらいのとき、大東流の達人として知られた武田惣角という先生が自分の家に約一年半ほど滞在し、そのとき教えてもらった。父と「ああだ」「こうだ」と一緒に研究した。どこをどう狙うと一番効くか、手の指は五本しかない。手の骨格の構造から考えた。17歳のとき、相手の力のぬき方が分かった。これが合気の出発点で、以来、何十年も工夫を重ねてきたという。
 指導中、居合抜きの話になった。「来てみなさい」。筑波大学体育科学系準研究員、同大剣道部コーチで五段の前林清和さん(32)が木剣を腰に、詰め寄った。と、次の瞬間には柄を握られ、その柄を中心として前林さんの体はもんどり打ってたたきつけられた。前林五段がそれを奪い取ろうと激しい勢いで走り寄り、柄に両手をかけた。と、先生は柄をぐいっと、しゃくった。相手の腕にショックが走り、腰が少しくだけたかと思うと、ばしっと床にたたきつけられた。先生の手は、相手の体に触れていない。
 前林さんによれば「いつも、先生の片手を思いっきりつかんだ瞬間、先生が少し手を前に出されるだけで自分の体の力が抜け、エビぞりになって真後ろに二、三メートルも吹っ飛ばされてしまう。その時は力を感じないが、畳にたたきつけられた衝撃で自分がすごいエネルギーを受けたことが分かる。直接、体が接触して投げられるのとは違うように思う」「私も体育の専門家として、その世界で一流といわれる人々の実技をいろいろ見てきたが、こんな武術は見たことがない」。

 木村医博の兄で合気道五段、剣道三段の木村達雄筑波大助教授(42)=数学、理学博士=や武術としての太極拳を長年やった内野孝治国分寺市教委教育委員長(59)は10ー15年来の門人だが、「佐川先生には二人がかりでねじって宙に浮かせても、なぜか力が入らず、激しくたたきつけられてしまう。毎回、先生の技に驚いて帰る」という。
 先生の体を調べた木村医博は「血液、尿、コレステロール値など異常はなく、血のきれいさは医学の常識から外れている。80歳代としてすごいのではなく、絶対的にすごい。毎日の鍛錬のお陰だと思う」。先生自身も「毎日運動することの大事さが経験からよく分かる」という。
 佐川さんは弟子たちに説く。「世の中は教え過ぎだ」「一から十まで人に習おうというのでは駄目だ。自分でヒントを得て工夫しなくては」。門弟は約70人、高校生から71歳、京都、岡山から通う人もいる。もう弟子を増やす気持ちはない。「先生しかあの技は使えない。しかし、何とかして技を後に伝えたい」と弟子たちは懸命だ。
 文:畦倉実記者(朝日新聞、1990年1月18日夕刊)

 ほかにも合気道の達人はいた。まず大正生まれの塩田剛三(1915ー1994)。
 Wikipediaより抄録。

 塩田剛三は、東京府四谷区(現・東京都新宿区四谷)出身の武道(合気道)家である。身長154cm、体重45kgと非常に小柄な体格ながら「不世出の天才」と高く評価され、「現代に生きる達人」とも謳われた。

 昭和7年、18歳の時、通っていた学校の校長の誘いで植芝盛平の営む植芝道場を見学。その際、植芝に手合わせを挑んだが、一瞬で投げ飛ばされ、即日入門を決意する。これ以後、内弟子時代も含めて約8年間、植芝のもとで修行に励む。その後拓殖大学を卒業。
 昭和37年、ロバート・ケネディ夫妻が養神館道場に来館。この時、塩田の強さを疑ったロバート・ケネディの申し出によって同行していたボディーガードと手合せを行い、これを圧倒している(この時の様子は映像にも記録されている)。ケネディは後年、この時の様子について、「私のボディーガードがその小柄な先生に立ち向かっていったところ、まるで蜘蛛がピンで張り付けられたように、苦もなく取り押さえられた。その後でボディーガードは『今朝は食事をしてこなかったものですから』と言ってはいたが、食事をしてきたら勝てたとは言わなかった」と回顧録「世界訪問旅行」に記している。
 ある時、弟子に「合気道で一番強い技はなんですか?」と聞かれ、塩田は「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えたという。

ついで、塩田の師である明治生まれの植芝盛平(1883 - 1969)。
Wikipediaより抄録。

 植芝盛平は武道家。日本の合気道創始者

 合気道関係者は「開祖」、特に古い高弟は「翁先生」(おおせんせい)と呼ぶことが多い。和歌山県田辺市生まれ。農家に生まれ、田辺中学校を中退し、税務署勤務を経て文房具卸売り業を開業。その傍ら起倒流柔術・神陰流剣術を学ぶ。その後兵役につき、日露戦争に従軍。その間柳生心眼流柔術の中井正勝の道場に通い免許を受ける。兵役を終えた後は、北海道紋別郡白滝村(現遠軽町)の原野に開拓農民として移住し開拓村で農業を指導、その一方で大東流合気柔術武田惣角を北海道へ招いて合気柔術を習った。

 1917年に父親の危篤の報を聞き帰郷した後、宗教団体大本に入信し京都の綾部に移住、1919年に綾部で「植芝塾」道場を開設、1922年頃から出口王仁三郎命名により、自らの武術を「合気武道」と呼称し、井上鑑昭と共に大本の内外の人に教授していた。
 第二次大本教弾圧事件を契機に「大本」及び「合気武道」をはなれ、独自に「皇武会」を発足し距離をおいた。その後、1931年には東京都新宿区若松町に道場「皇武館」を発足、1940年には「財団法人皇武会」として厚生省より認可を受けた(皇武会は1948年に合気会と改称される)。

 このように佐川幸義も植芝盛平武田惣角(1860ー1943)の教えを受けている。
 最後に現存する達人、甲野善紀については彼のホームページを紹介してこの項を終える。

http://www.shouseikan.com/