うしお画廊の井上敬一展を見る

 東京銀座のうしお画廊で井上敬一展が開かれている(3月18日まで)。井上は1947年、福岡県田川市生まれ。1980年に福岡教育大学美術研究科を修了している。井上は銀座のみゆき画廊で個展をしていたが、みゆき画廊が閉じてからはうしお画廊で個展を開いている。


 井上は昨年は顔を描いた小品を多数展示していたが、今年は比較的大きな作品を10点だけ展示している。牛など動物や、いつもの変顔を描いているがこれが素晴らしい。男女とも歯をむき出しにしたおかしな顔なのだが、なぜかそれが見苦しくなくむしろ楽しいのだ。

 色彩も暗いのにこれまた重苦しくない。気持ちの良い個展になっている。

     ・

井上敬一展

2023年3月13日(月)-3月18日(土)

11:30-19:30(最終日17:00まで)

     ・

うしお画廊

東京都中央区銀座7-11-6 GINZA ISONOビル3F

電話03-3571-1771

http://www.ushiogaro.com/

 

 

山本弘の作品解説(115)「河原道」

山本弘「河原道」、油彩、F10号(天地53.0cm×左右45.7cm)

 

 1976年制作。河原の真ん中に1本の道があり、その先に遠く山がそびえている。道は真っ直ぐ山に向かって伸びており、道の途中に1頭の黒い犬が立っている。山本はしばしば三叉路やT字路を描いているが、また一本道も何度も採り上げるテーマだ。これはT字路と一本道を合わせたような造形になっている。

 三叉路には猫が座っていたりするが、道の途中に立っている犬というのは他に見たことがない。犬はおそらく何かを含意しているのだろう。やはり画家自身だろうか。

 遠い山に向かって道が一本続いている。犬は立っているのではなく、足を踏ん張って何かに吠えているのかもしれない。誰も通らない道に向って。

 左下に控えめに「弘」とサインされている。派手な色彩は使われていないが、複雑に色が塗り重ねられ、山本特有の渋い華やかさを提示している。

 

 

 

慎改康之『ミシェル・フーコー』を読む

 慎改康之ミシェル・フーコー』(岩波新書)を読む。フーコーは現代フランスの哲学者、難解な哲学で知られている(1984年に亡くなっているが)。主著は『言葉と物』、『知の考古学』、『監獄の誕生』、『性の歴史(1~4巻)』など。私も『言葉と物』や『マネの絵画』を持っているが、まだ読んでない。その難解さに手に取るのを躊躇しているのだ。本書でフーコーについて概略が得られればと読んでみた。

 結論から言うと優れたフーコー入門書だった。フーコーの主な著書の発行順に沿って解説をしている。難解なフーコーの思想を分かりやすく紹介してくれる。かと言って私がそれをさらに要約して紹介するのは荷が重い。それで「終章 主体と真理」から引用する。

 

 狂気が全面的に精神の病として定義されるようになったのは、主に監禁制度の創設およびその解体といった社会的出来事との関連においてであるということ。病理解剖学に依拠する実証的な医学が成立したのは、可視性の形態および死の概念が変化したからであるということ。「人間とは何か」という問いに比類のない特権が与えられるようになったのは、西洋の認識論的布置が根本的に変容したためであるということ。身体刑から監獄へという刑罰制度の変容は、権力形態の根本的変化によってもたらされたものであるということ。性についてかくも多くのことが語られてきたのは、人々の生に介入することを目指す権力にとって、性が特権的な標的を構成しているからであるということ。自分の欲望のうちに自分自身の真理を読み解こうという企ては、初期キリスト教の教父たちの言説に生じた変化のなかにその端緒を見いだすことができるといこと。こうしたことを明らかにしつつ、フーコーの歴史研究は、我々の現在を差異として浮かび上がらせるとともに、思考を新たに再開するための手がかりを我々に差し出すのである。

 次に、フーコーの研究にたびたび生じる変化というもう一つの側面について。

 1960年代の彼の「考古学的」探求の全体は、50年代に彼が帰属していた人間学的思考の地平から身を引き離すためのプロセスとして特徴づけられる。次いで70年代には、知の軸から権力の軸への移行、さらには、権力のネガティブな側面からポジティブな側面への視点の移動が生じる。そして80年代には、自分自身からの離脱へと誘うものとしての「好奇心」に導かれて、自己の技術という新たな軸のもとで古代社会への遡行が行なわれる。現在を別のやり方で考える術を我々に提供してくれるものとしてのフーコーの哲学的歴史研究は、こように、次々に異なる形をとって展開されるそのやり方においてもまた、自分自身から絶えず身を引き離そうとするもの、自分自身を不断に変化させようとするものとして現れるのである。

 そして、フーコーの研究活動を特徴づける以上二つの側面に焦点を定めた考察を進めるなかで、浮かび上がってきたものがある。やはり彼の研究全体を貫くものとして見いだすことのできるもう一つの特徴、もう一つの側面とはすなわち、主体と真理との関係の問題化である。

 とくに晩年の対談のなかで、フーコーは、主体こそが常に自分の大きな関心事であった、とたびたび口にしている。実際、主体と真理との関係の問題化は、彼において常に、自己からの絶えざる離脱を導くものとして、そしてそれと同時に、そうした離脱によって絶えず刷新されるものとして現れる。

 まず、60年代において、フーコーがかつての自分自身からの脱出を企てる際、告発されるのはまさしく主体と真理との特定の結びつきを想定するものとしての人間学的思考である。次に、70年代に開始される権力分析においては、主体と真理とのそうした人間学的な軛が、権力による「従属化」の作用としてとらえ直されるとともに、その軛から逃れようとする企てが権力に対する抵抗として価値づけられることになる。そして最後に、80年代には、主体と真理との関係をめぐる問題を新たなやり方で問い直すためにこそ、時代を大きく遡り、古代世界における自己の実践が探査されることになるのである。

 1980年にニューヨークで行われた講演のなかで、フーコーは次のように語っている。第2次大戦前から戦後にかけて、ヨーロッパの哲学は、主体をあらゆる知の基礎とみなそうとするものとしての主体の哲学によって支配されていた。そうした支配から脱するためにこそ、自分は、近代的主体についての系譜学的研究を進めてきたのだ、と。自明性を問い直し、自分自身から身を引き離そうとするものとしてのフーコーの哲学的活動は、何よりもまず、「主体の学」からの離脱の企てとして開始されたのであるということ。そしてその問題化、その企てが、知、権力、自己との関係という3つの軸のそれぞれにおいてそのかたちを変えながら、彼の研究活動全体を絶えず導いているのである。

 

 

 

 

 

木村裕・監修、大中洋子・絵『まんがでわかる畑の虫』を読む

 木村裕・監修、大中洋子・絵『まんがでわかる畑の虫』(農山漁村文化協会)を読む。イラストで畑作害虫を紹介している図鑑。大中の描くイラストが分かりやすく、木村による記載も簡潔でよくできている。取り上げられている虫(害虫)は27項目。種類でなく項目と書いたのは、アブラムシ類やカメムシ類、ハダニ類などが1項目として取り上げられているから。主なものは網羅されていると思うが、コナガがなかった。アブラナ科野菜の重要害虫なのに、なんで? 本文を読んでいくと、アオムシの項に取り上げられていた。ただ見出しには一切出ていないので、本文を読むまでは分からない。

 世の中には虫嫌いの人が多いので、リアルな写真ではないことが良いのかもしれない。でも十分に分かりやすいイラストだ。私は前職で雑草や害虫のカメラマンもしていたので、害虫なんか大好きなのだが。

 

 

 

 

ギャラリーせいほうの櫻井かえで彫刻展を見る

 東京銀座のギャラリーせいほうで櫻井かえで彫刻展「ラクダと観覧車と魚のなる木」が開かれている(3月10日まで)。これがとても面白い。櫻井は1974年東京都生まれ、2002年に武蔵野美術大学造形研究科美術専攻彫刻コースを修了している。2001年にギャラリーせいほうで初個展、以来せいほうで何度も個展を開いている。

 以下、小品



 画廊には大きな木彫が展示されている。まず馬かと思ったらラクダだった。もう1点は魚のなる木、その他小品もユーモラスで面白い。

 しかし何よりも「ラクダと観覧車」と題された大作が面白い。ラクダをこのような形でとらえた櫻井の感性がユニークで優れている。そのことは奈良美智の凡庸な「彫刻」作品と比べればよく分かる。

 紹介するのが遅くなり、会期が今日1日しかないのが残念だ。ぜひギャラリーまで足を運んでほしい。

     ・

櫻井かえで彫刻展「ラクダと観覧車と魚のなる木」

2023年2月27日(月)-3月11日(金)

11:00-18:30(最終日17:00まで)日曜休廊

     ・

ギャラリーせいほう

東京都中央区銀座8-10-7 東成ビル1F

電話03-3573-2468

http://gallery-seiho.com