コバヤシ画廊の村上早展を見る

 東京銀座のコバヤシ画廊で村上早展が開かれている(10月1日まで)。村上は1992年群馬県生まれ。2014年に武蔵野美術大学造形学部油絵学科版画専攻を卒業し、2017年同大学大学院博士後期課程中退。毎年コバヤシ画廊で個展を続けていて今年が7回目になる。2016年ワンダーウォール都庁で初個展、ついでコバヤシ画廊、東京オペラシティアートギャラリー、アンスティチュ・フランセ東京ギャラリー、中国北京のギャラリーなど各地のギャラリーで引っ張りだこだ。

 受賞歴も2014年のシェル美術賞展入賞、FACE2015の優秀賞、山本鼎版画大賞展で大賞、トーキョーワンダーウォール公募2015のトーキョーワンダーウォール賞、群馬青年ビエンナーレ2016優秀賞、アートアワードトーキョー丸の内2016フランス大使賞など、輝かしい実績を誇っている。上田市立美術館で個展も開かれた。

「もだえる」

事務所の小品

事務所の小品

事務所の小品


 村上は銅版画を用いシンプルな形で多層的な意味をはらんだイメージを造形している。作品にはいつも悲しみのような感情が含まれている。だが、それは個人的なものというより、人の普遍的な感情のようだ。村上は若くして存在の悲しみを知っているのだろうか。

 奥の事務所には魅力的な小品が多数展示されている。

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村上早展

2022年9月19日(月)-10月1日(土)

11:30-19:00(最終日は17:00まで)日曜休廊、祝日開廊

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コバヤシ画廊

東京都中央区銀座3-8-12 ヤマトビルB1

電話03-3561-0515

http://www.gallerykobayashi.jp/

 

 

Stepsギャラリーの槙野匠展を見る

 東京銀座のStepsギャラリーで槙野匠展「かたちの辺り」が開かれている(9月24日まで)。槙野は茨城大学大学院教育学研究科美術教育専修を修了している。1994年にときわ画廊などで個展をし、つくば美術館などのグループ展に参加している。

 今回大きな立体作品が2点、画廊の壁に設置されている。

 「雲の考」は左右370cmの大きなもの。素材は鋼板・アクリルウレタン塗料となっている。こんなに大きければ重量もバカにならないだろうと思ったが、画廊主によるととても薄い鋼板なので案外軽いのだと言う。小さな箱を連結した作品で、箱と言えばミニマルアートのジャッドを連想するが、ジャッドが無機質でのっぺりとしたほとんど意味を捨象した作品なのに対して、槙野の作品は饒舌な表層を持ち、造形的にも豊かで

魅力的な主張を示している。いわばジャッドの真逆の方向だ。

「雲の考」



 「橋の考」は左右261.5cm、高さ52cm、やはり鋼板・アクリルウレタン塗装となっている。題名の「橋」のように、どこか太鼓橋を思わせるものがある。

「橋の考」



 槙野の作品こそ美術館に収蔵されるべきではないか。それだけの完成度を持っている。撮影し忘れてしまったが、事務所には小品が何点も展示されていた。これらがまた魅力的で格安だった。ちょっとほしかった。

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槙野匠展「かたちの辺り」

2022年9月14日(水)-9月24日(土)

12:00-19:00(土曜日17:00まで)日曜日休廊

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Stepsギャラリー

東京都中央区銀座4-4-13琉映ビル5F

電話03-6228-6195

http://www.stepsgallery.org

 

 

黒鉄ヒロシ『マンガ猥褻考』を読む

 黒鉄ヒロシ『マンガ猥褻考』(河出新書)を読む。カバーの惹句から、「……天才漫画家が、ついに生涯のテーマのひとつ“ワイセツ”に、真正面から挑む。歴史、文学、美術、映画、哲学、博物学の知見を総動員して、その秘密に迫る。超絶技巧の作画でおくる、完全描き下ろし漫画。猥褻とは何か――世紀の奇書、誕生」。

 奇書ではあるが、「世紀の」とはちとオーバー。猥褻とは何かを全編マンガで綴っている。黒鉄のあまりきれいとは言えない線で、様々な方向から探っている。たしかに黒鉄の「生涯のテーマのひとつ」なのだろう。普通そんなことをここまで真剣に考えない。

 途中、ドイツの絵葉書が描き写されている。若い娘が寝そべって机の上に手を伸ばして本を取ろうとしている。短いスカートがたくし上げられ下着がずり下げられていて、尻が見えている。何とも不自然なポーズだ。確かにこれは猥褻だと感じられる。

 また自転車のサドルだけを盗むサドル泥棒が紹介される。サドル泥棒にとっては自転車のサドルは間接的に性器が触れるからフェティシズムの対象になるのだ。フェティシズムも猥褻なのだろう。

 『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルこと数学者のドジスン。アリスのモデルは10歳のアリス・リデル。でも黒鉄は書く、「キャロルの時代の彼の立場は少女はもとより性の対象ではなかった」。アリスを書いた2年後、キャロルは偶然街でアリスに出逢っている。「彼女はすっかり変わってしまったみたいだ。良い方に――とはいいがたい。恐らくあの激しい過渡期なのだろう」。キャロルが考えた“激しい過渡期”とは―恐らく初潮のコトではないか? と黒鉄は書く。

 世紀末のロンドンに留学し、大英博物館に通って52冊のノートを作成した南方熊楠。そのテーマは、男色、オナニズム、両性具有、宦官、売春、強制猥褻、性的錯乱。

 印象派のマネは、「草上の昼食」を発表し、猥褻だと非難された。黒鉄は、日本の浮世絵は性を開放的に描いた。浮世絵の枕絵がマネらに影響を与えたのではないかと黒鉄は書く。日本では大きなペニスさえもご神体として崇められていた。それは当時猥褻ではなかった。江戸城の大奥では張形の需要もあった。街にはそれらを商う商家もあった。浮世絵はクリムトにも影響を与えて、人物像を男根のシルエットにしたりしていると書く。

 なるほど、確かに古代に猥褻はなかっただろう。猥褻はある種の文化であり、作られたものなのだ。だからと言ってそれを無視できるものではなく、共同の幻想と言えるのではないか。まあ、奇書ではあった。

 

 

 

鈴木江理子・児玉晃一編著『入管問題とは何か』の書評

 鈴木江理子・児玉晃一編著『入管問題とは何か』(明石書店)を中島京子が書評している(毎日新聞2022年9月17日付)。その内容が凄まじい。

 

……いったい「入管問題」の本質はなんなのか。

編者の一人の鈴木江理子は、「暴力性」と書く。

 「収監の可否判断に司法は関与せず、入管職員の裁量によって、無期限の習慣が可能である」施設。その対象になるのが「外国人」で「日本にいるべきではない不法な人間」とされるために、「関係者や監督者の責任が追及されることなく、やり過ごされて」きた。

 

 3章の高橋徹による「入管で何が起きていたのか」の記述は、読む者の胸を抉る。たった20年ほど前の入管の人権侵害ぶりは凄まじい。文字通り、殴る蹴るの暴力が日常化し、職員による被収容者のレイプまで行われていた。

 

4章ではクルド難民の支援に携わる周香織が、自らの活動を振り返る。国連難民高等弁務官事務所が正式に認めた「マンデート難民」であるにもかかわらず、日本の入管がクルド人親子を強制収容し、支援者や弁護士らが抗議の記者会見を開いている只中に、チャーター機でトルコに強制送還した、日本の入管史上特筆ものの、人権侵害事件が詳述される。

 

 差別を、「暴力性」を、制度の中に持っている以上、日本人はほんとうの意味では「人権」を知らない。「入管問題」とは、この事実と向き合うことだ。わたしたちは、まず、この認識から出発すべきではないかと感じた。

 

 

 きわめて重い事実を指摘された。

 

 

 

筒井清忠編『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』を読む

 筒井清忠編『昭和史講義【戦後文化篇】(下)』(ちくま新書)を読む。本書戦後文化篇下巻は、映画などを主体に音楽やマンガやテレビなどを扱っている。いままで映画は監督を中心に見ていくという視点が多かったが、本書は映画会社から映画史を見ていくというユニークな視点を採っている。

 19講から成っているが、その目次を拾うと、「戦後の木下恵介と戦争」、「『君の名は』と松竹メロドラマ」、「成瀬巳喜男」、「ゴジラ映画」、「サラリーマンと若大将」、「新東宝の大衆性・右翼性・未来性」(これはもちろん片山杜秀執筆)、「『叛乱』-日本における政治歴史映画の特質』、「三隅研次大映時代劇」、「日活青春映画」、「東映時代劇」、「任侠映画興亡史」、「幕末維新映画」、「菊田一夫」、「少年少女ヒーローとヒロイン」、「東映動画スタジオジブリ」、「長谷川町子手塚治虫と戦後の漫画観」、「朝ドラ」、「被爆者・伊福部昭と水爆大怪獣・ゴジラ」(伊福部を語るのは片山杜秀)、というラインナップ。

 片山杜秀は近代日本政治学者であり現代音楽評論家だから、新東宝の右翼性も伊福部昭も片山抜きには成り立たない。

 成瀬巳喜男は松竹に在籍していたが、城戸四郎に「小津安二郎は二人要らない」と軽んじられ、P.C.L.(後の東宝映画)に移籍した。

 新東宝を語るために片山杜秀大江健三郎の「セヴンティーン」から始める。「セヴンティーン」も右翼少年の物語だった。

 少年少女ヒーローとヒロインで、『赤胴鈴之助』~『月光仮面』~『隠密剣士』の流れが語られる私も。小中学生の頃夢中で見ていたのだった。ほかに『怪傑ハリマオ』というのがあった。月光仮面は今から見るとちゃちなオートバイに乗っていた。

 手塚治虫について、夏目房之介は「手塚の発言には問題が多く(中略)、手塚の発言を検証なしに使うのはきわめて危険である」と厳しい。「とはいえ手塚の戦後物語漫画への影響力は圧倒的ではある」とも言っている。

 いずれの論考も他にあまり似たものを読んだことがなく、新鮮で興味深かった。上巻も含めて優れた昭和史講義だった。