ギャルリー東京ユマニテの奥村浩之彫刻展「Ciclo/Cycle」を見る

 東京京橋のギャルリー東京ユマニテで奥村浩之彫刻展「Ciclo/Cycle」が開かれている(2月1日まで)。奥村は1963年石川県生まれ、1986年に金沢美術工芸大学彫刻科を卒業し、1988年に同大学大学院修士課程を修了している。その翌年メキシコに渡り、以来メキシコ在住で今日に及んでいる。個展は数多く行ってきたが、ほとんどメキシコ、アメリカ、フランスのギャラリーだった。日本では2013年と2015年、2017年にギャラリーf分の1で行っていて今回が4回目になる。

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 奥村はメキシコ大理石を使っているが、今回巻貝状の石のみオニキスを使っている。奥村はメキシコで大きな作品を作っているという。今回の作品は大きなものが2点あるが、どちらも800kgくらいあるようだ。赤茶色の作品は自然の地層を取り出したような形をしていながら、それがまぎれもなく人工の形態を示して、作家の作品であることを雄弁に主張している。
 白い大理石の作品は岸壁に穿たれた古代人の洞窟のようにも見える。やはり自然と人工のあわいのような作品だ。乱暴に総括すれば、自然の形態を人工に引き寄せて再現している。

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 ほかに岩山のような「星雲」、巻貝のような「宇宙の舵」が展示されている。大きな世界を創作している優れた彫刻家の仕事を見てほしい。
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奥村浩之彫刻展「Ciclo/Cycle」
2020年1月14日(火)―2月1日(土)
10:30-18:30、日曜日休廊
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ギャルリー東京ユマニテ
東京都中央区京橋3-5-3 京栄ビル1F
電話03-3562-1305
https://g-tokyohumanite.com

 

ドゥ・ヴィット、谷川俊太郎『あのひと』を読む

 マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット構成・絵、谷川俊太郎 詩の『あのひと』(スタジオジブリ)という〈やおい〉絵本を読む。
 谷川俊太郎の詩が「私はひとり そらのした/私はひとり くさのうえ/私はひとり ひとりがいい/あのひとを ゆめみて」と書かれ、若い男が彷徨い、林で釣り竿を採り川で銀の魚を釣り上げる。火を起こしていると誰かに名前を呼ばれる。振り向くと一人の女がいた。女はあっというまに走って消えた。男は丘を越え谷をさすらい年を重ねて女を探した。髪も髭も白くなっていった。そおしてついにあの人を見つける。二人は手を繋いで歩いて行った。
 これを〈やおい〉(山無し、落ち無し、意味無し)と言わずに何と言おう。何てつまらない絵本なんだ。そして最後にイエ―ツの詩が英語で載っていて、この絵本はこの詩に着想を得ていると記されている。その詩“The Song of Wandering Aengus”を引用する。

I went out the hazel wood,
Because a fire was in my head,
And cut and peeled a hazel wand,
And hooked a berry to a thread;
And when white moths were on the wing,
And moth-like stars were flickering out,
I dropped the berry in a stream
And caught a little silver trout.

 

When I had laid it on the floor,
I went to blow the fire a-flame,
But something rustled on the floor,
And some one called by me name;
It had become a glimmering girl
With apple blossoms in her hair
Who called me by my name and ran
And faded through the brightening air.

 

Though I am old with wandering
though hollow lands and hilly lands,
I will find out where she has gone,
And kiss her lips and take her hands;
And walk among long dappled grass,
And pluck till time and times are done,
The silver apples of the moon,
The golden apples of the sun.

 その訳詩を探すと加島祥造 訳編『イエ―ツ詩集』(思潮社)にあった。その中から前川俊一訳で「さまようイーガンスの歌」を転載する。

私は頭が火照っていたので
はしばみの林に出かけた。
そして はしばみを切り剥いで棒をつくり
いちごの実を糸につけ
白い蛾が飛び
蛾のような星がきらめき出す頃
いちごの実を流れにおとして
銀色の小さな鱒をとらえた。

 

それを床に置くと
火をおこしにかかった。
しかし、さらさらと床に音がして
誰か 私の名前を呼ぶのだ。
それは 林檎の花を髪にかざした
微光を放つ少女になっていて
私の名を呼んで駈け出し
あかときの光に消えて行った。

 

私は盆地や丘々を
さまよい歩いて年老いてしまったが
彼女の行方をつきとめて
その唇に口つけし、その手を把りたい。
丈高い斑の草地をあるきまわり
時がついに果てるまで
月の銀の林檎と
太陽の金の林檎を摘みたい。

 別の訳詩では鱒が少女に変わったとなっていた。いずれにしろ、原詩では男はついに少女に会わないのに、絵本では最後に仲良く手を繋いでいる。〈やおい絵本〉と呼ぶべきだろう。

 

あのひと (ジブリ)

あのひと (ジブリ)

 

 

 

 

 

横浜開港アンデパンダン展に山本弘を出品した

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 横浜桜木町横浜市民ギャラリーで第8回横浜開港アンデパンダン展が始まった(1月19日まで)。その「特別展示 横浜の縄文、美と力」に山本弘を出品した。「削道AB」(30F)と「黒い丘」(10F)、「川」(10F)、「森」(4F)の4点の油彩と書「泥遊」だ。
 今回のテーマ縄文に沿って、山を削った赤土を描いた「削道」と、「黒い丘」、黒い丘を削って流れる「川」、それに人の手が加わらない「森」だ。これらは山本弘の代表作と言ってもいいかもしれない。

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 横浜の地で山本弘が紹介されるのは初めてだと思う。近くにお住いの方がいたらぜひ見て下さい。
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「横浜開港アンデパンダン展」
2020年1月14日(火)―1月19日(日)
10:00-18:00(最終日15:00まで)
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横浜市民ギャラリー
横浜市西区宮崎町26-1
https://ycag.yafjp.org/
https://ycag.yafjp.org/schedule_exhibition/
http://www.independants.jp/
桜木町駅より徒歩10分
日ノ出町駅より徒歩8分

 

新珍味のタ―ローメンを食べる

 池袋の中華料理店新珍味でタ―ローメンを食べる。タ―ローメンについては店頭の看板に説明がある。

同店が65年の長きに渡りその味を守り続けてきたという、名物《タ―ローメン》は酸味と辛みとニンニクの香りがクセになる、餡かけラーメンです。
ラーメンの上に餡がかかっていると思ったら大間違い、スープがすべて餡そのものなのです。
そのトロトロの餡は麺によく絡み、モチモチの麺とともに最後の一滴まで飲み干せてしまう美味しさです。

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 新珍味は池袋西口の飲み屋街の入口近くにあり、昔友人たちと池袋で飲んだときの締めはここだった。餃子とラーメンを注文してビールを飲んだ。
 この店を思い出したのは昨年9月に台湾出身の史明氏が100歳で亡くなったとの死亡記事を読んだのがきっかけだった。新珍味は史明氏が作った店だった。Wikipediaによると、史明氏とは、

史 明(しめい、シーミン、1918年11月9日 -2019年9月20日[1])は、台湾の歴史家・台湾独立運動家。
中国国民党の弾圧を避けて日本に亡命し、『台湾人四百年史』を著した。台湾民主化後、帰国。台湾独立運動の指導者の一人で、「独立台湾会」の設立者。左目を失明している。本名は施朝暉。
1918年、日本統治時代の台北州士林にて出生。(中略)
1937年日本に渡り、早稲田大学政治学を学ぶ。植民地時代、政治学は選択する人の少ない科目であった。彼はここで社会主義無政府主義の作家の作品をほぼ読み尽くし、なかでもマルクス主義の教義に惹かれた。大学卒業後、社会主義反帝国主義の理想に執着した彼は1942年に大陸に渡り、中国共産党の抗日運動を支援する。1947年には300人程度の「台湾隊」を結成。彼の台湾独立という考えは、この大陸での経験の中で初めて芽生えた。
史明は中国に対して失望を覚える。「私はすぐに中国共産党の独裁を見た」、「共産党の土地改革を私は華北で見たが、土地を取り上げるばかりでなく、地主を残酷に殺した」と述べている。また、中国で日本との戦争に加わったとき、中国人の漢民族中心主義を間近に見た。台湾の兵士は共産党によって前線に送られ、無惨にも犠牲になったばかりでなく、それと同時に共産党は積極的に台湾人の分裂政策をとり、「客家人にはホーロー人を打たせ、ホーロー人には客家人と戦わせた」という。このために史明は「台湾人は中国人と一緒にはやっていけない」と考えた。
1949年末の共産党勝利直前、各地を転々としたあと、最終的に大陸を逃れて十年ぶりに台湾に戻る。1952年には台北郊外の山上で「台湾独立革命武装隊」を組織し、蒋介石の暗殺を謀るが、計画が事前に漏れ、この年日本に密かに渡ることを余儀なくされた。
日本への亡命後、生活のため史明は東京の池袋に、餃子、焼売、うどんなどを売る料理店『新珍味』を開いた。(中略)1967年4月に彼が率いる「台湾独立連合会」が東京に成立、「台湾民主独立会」、「台湾自由独立党」、「台湾共和党」、「台湾独立戦線」および「台湾公会」がこれに参加した。しかしながら直後の同年6月、「台湾青年独立連盟」と「台湾独立総連盟」との協調を獲得できなかったため、組織の解散が宣告された。
この組織が解散したあと、直ちに比較的左派に傾いた新たな「独立台湾会」を組織。メンバーは70人程度であった。この組織は「主戦場は島内にあり」を規範とし、積極的に台湾島内の地下工作と大衆運動に携わった。(中略)この組織は同時に「独立台湾」という刊行物を出版し、その冒頭でははっきりと「台湾人民解放革命陣線機関誌」と記した。
上記の政治運動の他に、台湾史の資料収集と執筆に相当の精力を費やした。10年をかけて『台湾人四百年史』(音羽書房, 1962年)を日本語で執筆。これは台湾人の立場に立って書かれた最初の台湾通史と言うことができる。台湾独立陣営によるこの台湾史の大著は、その後1980年にアメリカ合衆国で中国語版が出され、1986年には英語版の抜粋が出版された。史明の基本的な史観は、苦しい大衆の立場を重視し、台湾社会のそれぞれの段階の形成と発展を観察するものである。彼は中国の共産主義を排斥していたが、マルクス主義への信仰は捨てられなかったといえる。(中略)
台湾民主化後、「ブラックリストの最後の一人」と呼ばれた史明も1993年になって帰郷し、「台北愛郷会」、「高雄愛郷会」などの下部組織を作る一方、「独立台湾会」の理念と政治闘争路線を推進している。 2016年から蔡英文政権で総統府資政(総統上級顧問)を務める。
2019年9月20日台北医学大学付属病院で亡くなった。

 そんな偉大な人の作った店だった。

 

 

藤森照信+大和ハウス工業総合技術研究所『近代建築そもそも講義』を読む

 藤森照信大和ハウス工業総合技術研究所『近代建築そもそも講義』(新潮新書)を読む。明治以後の日本近代建築の歴史を上下水道から始めて具体的に詳しく語ってくれる。
 東京の防火計画で暗くなった室内に明かりを取り入れるために窓を作りたいが硝子は高価だった。トップライト(天窓)を作り、障子にガラスをはめた。額入障子、硝子入り障子、猫間障子、雪見障子が作られる。
 西郷隆盛の主導で天皇家の衣食住の洋風化を決めた。家には靴のまま上がり、畳の上に座らず、布団で寝ず、和服を着ない。行幸天皇の訪問)を仰ぐために貴族たちは洋館を建てる。和館の隣に応接用の洋館を建てる。それが有力者たちに拡がり、さらに津々浦々まで伝わった。洋館までは手が回らないので、洋館は和館に吸収され、和館の一角に洋風の応接間が作られる。絨毯の上に椅子・テーブルが置かれ、サイドボードが据えられた。サイドボードには洋酒と百科事典が並べられた。洋風の生活と和風の生活を折衷するためにスリッパが採用された。これは日本独自の風習らしい。
 井上馨が銀座を煉瓦街にすることを計画した。その煉瓦作りや設計者のお雇い外国人が紹介される。井上はグラバーのもとでエンジニアとして働いていたウォートルスにその計画を任せる。最初煉瓦はフランス積みだったが、のちイギリス積みに変わる。日本の煉瓦職人は目地の仕上げにもこだわり、日本にしかない蛙股という超特殊目地を発明する。
 洋風建築では石造建築が取り入れられる。橋にアーチが採用される。千葉の富津のノコギリ山から砂岩が房州石と名づけられて採集される。古典系スタイルの記念碑的建築には御影石が使われた。瀬戸内沿岸の御影石の建物で一番は三井銀行神戸支店だという。それについて、

 大学院生時代に初めて訪れた日のことは忘れられない。当時、古典系のスタイルは型にはまって堅苦しいと思っていたが、一本石の柱の前に立ち、下から見上げると、エンタシスの曲線とその上に乗るイオニア式柱頭の渦巻き曲線の二つがあいまって、艶を帯びてエロティックにすら思え、白く硬い石でここまで表現できるものかと、感動を受けた。以後、古典系スタイルを賞味できるように私の目が変わった。
 しかし、1995年の阪神淡路大震災の時、崩壊し、今はない。

 設計者は長野宇平治
 こんな調子でつぎつぎと面白いエピソードが綴られ、建築史が語られる。日本建築界は辰野金吾が作った。辰野は工部大学校でコンドルに学んだ。日本に建築界を作り、その建築界に君臨した辰野の作品はどうか? デザイン力があるわけではなく、同世代の中ではほどほどの腕前と藤森は評する。

……ライバルだった妻木頼黄とくらべると、各部分の視覚的相互関係はバラバラで統一感に乏しい。プロポーションを決める能力が十分ではなかったからだ。

 そして辰野の作った東京駅を例にとって、どこがいけないか具体的に指摘される。
 近代日本建築史の本でありながらとても面白く勉強になった。最後に些事ながら小さな誤りを指摘しておく。P.142にアメリカの下見板は”ユリの木”だったと書き、現在皇居の「桜田門から千鳥ヶ淵にかけたあたりで高く枝を伸ばす真っ直ぐな樹がユリで、」と続けているが、この樹の標準和名は「ユリノキ」だ。それを「ユリの木」と誤解したのだろう。

 

近代建築そもそも講義 (新潮新書)

近代建築そもそも講義 (新潮新書)