谷沢永一『運を引き寄せる十の心得』を読む(その2)

 谷沢永一『運を引き寄せる十の心得』(ベスト新書)を読む。ここに「中村幸彦先生へのご恩返し」という章がある。中村幸彦京都大学の国文科出身だったが、戦争中で就職口がなく、初め天理図書館に司書で入った。その後先輩の野間光辰九州大学の教授に押し込んだ。その中村と無二の親友が岡見正雄という中世文学の達人で、京都女子大の教授だった。谷沢は岡見を引き抜いて関西大学へ迎えた。谷沢は岡見と時々飲み歩いていた。ある時、岡見が中村が定年間近なのに九州大学を辞めると言っていると教えてくれた。それを聞いて谷沢はすぐに中村を関西大学へ呼ぶことを画策する。その夜のうちに、吉永登主任教授に電話して、明日飛行機で福岡へ飛んでくれるよう頼む。中村は即答でオーケーした。そのことはビッグ・ニュースとして広く流れた。
 すると甲南女子大が家一軒と支度金を積んでお迎えしたいと申し出た。中村はずっと借家住まいだった。しかし、「先着順でございます」と言って断ったという。谷沢はいつか何らかの形でご恩返しをしたいと考えた。
 中村幸彦関西大学を退職した2年後、谷沢はつてをたどって中央公論社の大番頭高梨茂を訪ねて、中央公論社から中村幸彦全集を出してくれるよう説得する。谷沢の半ば強引ともいえる説得に応えて高梨が中村幸彦著作集を出すことを約束してくれる。
 その中村幸彦著述集(中村は著作集でなく著述集という名前にこだわった)の国学編に「国学雑感」という書きおろしをおいた。これは本居宣長に対する痛烈な批判で、講演を文章にしたものだった。それまで文章化しなかったのは、「小林秀雄の『新潮』連載の「本居宣長」が完結して、単行本になって世間の評判になり、もう小林さんが恥をかくことがなくなってから、婉曲だけれども痛烈な批判を講演して、あの著述集に収められたわけです」。
 また、森銑三の「西鶴の真作は『好色一代男』のみで、あとは全部違う」という主張に対して、野間光辰と暉峻康隆は近世文学の若手研究者を押さえ込んで、森銑三の「モ」の字にも触れさせないよう緘口令を敷いた。「近世文学の若手の研究者は全部師匠筋があって、親分・子分があって、兄弟分がありますから、この両巨頭がガーンと押さえ込むと反発できない。シーンと学界は静まり返って、森銑三というのはこの世にいないかのごとく、30年間生き埋めにしたわけです」。谷沢だけが、それを「一つの新しい意見であるということを新聞雑誌に書いた」。そういう状態のときに野間光辰が京大を定年退職する。その記念に献呈論文集が出る。

その巻頭に中村先生は「編集者、西鶴の一面」と、つまり、西鶴は編集者であった、と、要するに、森説の100パーセント肯定ではないけれども、しかし、ほとんど森説の肯定に等しい論文をポンとお送りになった。野間光辰の定年を待っていらしたわけです。そこまで気配りをして、遠慮しなければならないかという見方もあると思いますが、それが中村幸彦というキャラクターの特質なんです。(中略)
……野間光辰の定年のお祝いの巻頭に、野間光辰の足元をバーンとすくうような論文を書くという芸をする人でした。

 私にとって、特にこの中村幸彦小林秀雄批判が大きな収穫だった。