『アイルランド紀行』を読む

 栩木伸明『アイルランド紀行』(中公新書)を読む。栩木は「とちぎ」と読むらしい。初めて見た漢字だ。本書の書評が管啓次郎によって読売新聞に載っていた(10月28日)。その書評の一部。

 本書は現代アイルランド文学の名翻訳者によるアイルランド紀行。現実の旅に、文学や音楽や映画や美術の記憶が自在に織りこまれてゆく。アイルランドでは土地をめぐる知識の総体を「ディンシャナハス」と呼ぶそうだ。一見荒涼とした風景にも、土地の名を手がかりに過去の出来事を見通すことができる。著者は自分の記憶と他人の記憶から「新しいディンシャナハスのアンソロジー」を作ることを試みたという。彼の適切な案内と要所要所での熟達の「吹き替え」が、言葉を色濃く宿すこの島国をたっぷり体験させてくれた。幸福な読書だった。いっそうその国を訪れたくなった。

 全体が3部に分かれており、「第1部 ダブリンとレンスター(東部)」「第2部 コナハト(西部)」「第3部 マンスター(南部)、アルスター(北部)とベルファスト」となっている。その中に短い30の章があり、はしがきで栩木は、「30の短い文章はそれぞれ独立しているので、気が向いたところから散歩をはじめていただきたい」と書いている。
 しかし、アイルランドなんて今まで興味を持ったこともなかったし、たしかにスウィフト、オスカー・ワイルド、イェイツ、ジョイスベケットの生まれた地だとは言っても、みな海外で活躍し発表してきたので、この国に深い関心を持ちにくかったのだ。
 著者は紀行文だから土地を巡り、その土地に関係のあるエピソードを語っていく。声高に語るのでもなく、むしろエピソードは地味なものが多いので、楽しみつつ読みながらも強く引きつけられるというものでもない。ただ徐々にアイルランドという国、国民、文化が身近なものに感じられてくる。
 アイルランドアイルランド共和国と、イギリスに属する北アイルランドに分かれている。カソリックプロテスタントに分かれた宗教の歴史、またかつてイギリスからの厳しい統治を受けた歴史、それらに絡めたIRAのテロと紛争。そんなことが少しずつ教えられる。
 デヴィッド・リーン監督の映画『ライアンの娘』は、ほぼ全編が南部マンスターのディングル半島で撮影されたという。西部コナハトのクール荘園で、詩人のイェイツが女主人グレゴリー夫人の庇護を受け、20年間しばしば長期滞在して大詩人に育っていった。
 ほとんど最後になって、北アイルランドプロテスタントカソリックとの紛争が語られる。その悲惨な状況がキアラン・カーソンの詩で紹介される。その「作戦行動」という詩。

彼らは何時間もかけて男を尋問した。男はいったい誰なのか?
正体を明かした男を、彼らは再び尋問した。男が誰なのか彼らが納得し
一味でないのを認めた後、彼らは男の爪を剥がした。それから
男をホースシューベンドに近い空き地へ連れて行き
男に、自分が誰なのかを思い知らせた。彼らは男を9回撃った。


くすぶるタイヤの山から黒い煙の渦が上がった。
男が嗅いだ悪臭は自分の匂いだった。割れたガラス、結んだコンドーム。
ストッキングをかぶせた握り拳そっくりの顔。わたしは男がグラッドストーン・バーにいたのを知っている。
ほぼ完璧な形の指を泡まみれにして見知らぬ連中にパイントを注いでいたのだから。

 第29章になって、北アイルランド出身のロック・ミュージシャン、ヴァン・モリソンのアルバム『アストラル・ウィークス』のなかの1曲「マダム・ジョージ」の難解な歌詞が話題にされる。

マダム・ジョージにさよならを言おう
マダム・ジョージのために涙を拭こう
マダム・ジョージのために、どうしてそうなのか考えよう

 マダム・ジョージについて、さまざまな人がその意味をとりあぐねている。ドラッグ・クイーンだ、まじない師だ、イェイツの妻のことだ等々。でもそれらは全部違っていた。それは北アイルランド紛争に火がつき始めたころのこと、嵐の前の奇妙な静けさを歌っているという。
 栩木の本書の構成は「気が向いたところから」読み始めてと言っていながら、実は周到な企みに満ちていた。アイルランドのあちこちを彷徨い歩かせておいて、アイルランドが身近に親密になったところで、北アイルランド紛争という重い歴史をさりげなく一見軽く読まされる。自分の中でアイルランドがとても近しい国に変わっていた。
 管啓次郎の書評「幸福な読書だった」を私も共有したのだった。そしてヴァン・モリソンのCD『アストラル・ウィークス』をAmazonに注文した。


アイルランド紀行 - ジョイスからU2まで (中公新書)

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アストラル・ウィークス

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