成金と相手の余裕の見分け方

 再び、中島誠之助「ニセモノ師たち」(講談社)から役に立つエピソードを。

 1990年代初頭のバブル期終焉の頃、関西のある高級住宅地に住むご婦人から、骨董品を鑑定してほしいという依頼が舞い込んだことがあります。一度は断ったんですが、10万円お支払いするので、どうしてもきてほしいといわれ、再三の要請にとうとう断りきれなくなり、では行きましょうということになりました。
 小綺麗な二階建ての洋館でした。玄関には豪華な絨毯が敷いてありました。たぶん2千万円ぐらいする舶来の高級品でしょう。
 それを目にしたとき、30年以上前に亡くなったオヤジの言葉を思い出しました。
「人の家を訪ねて、玄関に虎の皮が敷いてあったならばその家にはロクなものはないから、すぐ帰ってきたほうがいい」
 たしかに玄関に虎の皮が敷いてある家の主人というのは、たいていが成金趣味でありコケおどしの人たちが多いものです。そういう家に飾ってあるものは一見きらびやかで、ゴージャスではあるけれど、実質的な金銭価値は低いものでしかないと父が看破したことは、往年に活躍した侘び寂びを基調とする骨董商としては当然の、冷静な判断基準だったのだろうと思います。
 ですから、この家の玄関にある高価な絨毯は、オヤジがいうところの高価な虎の毛皮だなと思いました。

 次に相手の余裕の見分け方が語られる。

 そして、次なる観察、いや鑑定ポイントは、昼飯の内容です。
 わざわざ遠くからいらしてくれたということで、昼飯をご馳走してくれる。だいたい私は他人の家でメシを食うことがキライなたちなんですが、そのときは断りようもない。その家では、そば屋からカツ丼を出前してもらっていました。
 普通は、遠方からわざわざきた客人には、寿司かウナギをとるのが当たり前。ということは、この家では寿司屋やウナギ屋への支払いが相当たまっているのではないだろうか。そば屋はウブで素直だから、出前をしたときに玄関の立派な外国製の絨毯と象牙の宝船を見て、これは金持ちだと思うわけだ。
 だから私は、そいう家に呼ばれて、寿司が出てきたときは、ああまだ余裕があるな、ウナギが出てきたときはマアマアだな、カツ丼が出てきたときは、あっ、いよいよ終わりだなと食べ物からも判断する。もてなしという行為は、してくれた相手の経済状態が見えますからね。
 このご婦人の家も予想的中で、カツ丼だった。

 そうか、無理をしてでも寿司をとらなきゃいけないんだ。モースの紹介した北米インディアンのポトラッチの法則はここでも有効なのだった。
 ポトラッチ:北米カナダのインディアンは、客人に供応するのに、自分の持っている宝物を破壊する。供応とは、相手にご馳走することではなくて、相手のために自分の財産を消費・破損することなのだった。あなたのために自分はこんなに犠牲を払っているのですと。だから上等な出前をとれば、それだけ自分の財産を消費することになり、それが相手を供応することになるのだ。

ニセモノ師たち (講談社文庫)

ニセモノ師たち (講談社文庫)