『朝比奈隆 わが回想』を読む

 矢野暢・聞き手『朝比奈隆 わが回想』(徳間文庫)を読む。これが本当におもしろかった。朝比奈は大阪フィルハーモニー創立者で日本の著名な指揮者。聞き手の矢野暢は元京都大学法学部の教授。音楽に関する著書もある。京大では朝比奈の後輩にあたる。
 戦前からの指揮者である近衛秀麿について、

 矢野  近衛秀麿はいかがですか。
 朝比奈  近衛秀麿さんは何と言っても世界最高の貴族ですからね、祖先の藤原鎌足公っていったら、何年前でしょう、大体1300年ぐらい前じゃないですか。
 矢野  藤原一族が栄えたのは、大体10世紀ですからね。
 朝比奈  もう大変な貴族でしょう。ハプスブルグなんて問題じゃないですからね。(中略)
 矢野  日本文化の最初の形成者ですよ、藤原一族っていうのは。
 朝比奈  やっぱり、その血は残っているんですね。それじゃ国粋主義かというと、そんなんじゃないんです。たとえば、天皇家に対するものの考え方なんていうのは、自分とこの分家ぐらいにしか思ってらっしゃらないですな。それははっきりしているんです。秀麿家は藤原宗家ですから、ずうっと関白、太政大臣でしょう。「あそこのうちは」っていつかおっしゃったことがあってね、「あそこのうちは途中で変わったし、それにこのごろは……」ていうからどこの話かと思ったら、陛下のとこなんですよ。陛下の家系も藤原家から離れることはできないわけですよ。

 朝比奈は一時期阪急に勤めていた。その時の先輩に正岡忠三郎がいて世話になった。忠三郎は正岡子規の妹の養子だった。

 朝比奈  正岡家の当主(忠三郎)の部屋は4畳半一間ぐらいでその部屋の壁が全部本でうまっていて、真ん中にふとん1枚敷くぐらいしかスペースがない。それはもちろん万年床で、4枚ぐらいふとんが敷いてあって、寒くなるとだんだん下へ入っていって、暑くなるとだんだん上へ出てくる(笑)。汚いといったら、ほんとに汚いんですよ。冬に読んだ新聞の読みさしが下にあって、まるで発掘しているみたいなものでした。

 朝比奈はグラズノフ交響曲8番をやりたいという。

 矢野  ただ、グラズノフは日本でちょっと過小評価されてまして、余りだれもやらないですね。
 朝比奈  作曲家のプロとしては大した人です。ただ、非常に大衆性がない。そういうことを言っていいかどうか、貴族主義、エリート主義ですね。ですから、専門家が見たら大変すばらしい。

 いや、音楽についての話題が一番多くておもしろいのはもちろんだ。この本は1985年に中公新書で出版された。それが絶版になって、2002年に徳間文庫から出版されている。こんなにおもしろいのになぜだろう。おそらく聞き手の矢野暢が忌避されたのではないだろうか。
 矢野暢は京大教授で政治学者として著名な存在だった。クラシック音楽にも造詣が深く、私も23年前に矢野の『20世紀の音楽』(音楽之友社)を読んだことがある。ところが部下の女性たちに対するセクハラ事件が表面化して裁判になり、1997年に敗訴する。その結果社会からほとんどボイコットされる。著書も絶版になる。
 セクハラは犯罪には違いないが、その罰は厳しすぎないだろうか。父さん、娘が言う、被害者が私だったらどう思う? うむ、厳しすぎることはないかもしれない。

朝比奈隆 わが回想 (徳間文庫)

朝比奈隆 わが回想 (徳間文庫)