河内春人『継体天皇』を読む

 河内春人『継体天皇』(中公新書)を読む。6世紀武烈天皇が亡くなると、武烈天皇には男子も女子も子どもがいなかったので、王位継承者がいなくなってしまったと当時の朝廷の重鎮大伴金村が述べている。仁徳天皇の皇統が断絶してしまうとの事態に対して、ようやく探し当てたのが応神天皇の5世孫、越前にいたオホト王だった。それが継体天皇だった。オホト王が向かったのは河内の樟葉宮だった。そこで即位する。

 なぜ5世孫なのか。『日本書紀』が編纂された時代の皇族身分や継嗣のルールを定めた法に「5世」の規定があったのだ。5世王までは継承が可能であるとの規定があった。だから継体天皇はぎりぎり5世だったのだ。というか、5世の孫ということで天皇位を継承できたとする。

 その継体天皇は即位したものの在位20年目まではヤマトへ入ることができなかった。反対派が存在したことを推測させる。おそらく天皇位の継承に当たってかなり混乱があったのだろう。ここで仁徳天皇の皇統が途切れたとも考えられるのだろう。だから本書の副題は「6世紀に現れた世襲王権の「始祖王」」と謳っている。継体天皇の孫が用明天皇であり、その子が聖徳太子になる。

 継体天皇の時代、朝鮮半島の百済、新羅、加耶諸国との交流があった。任那に日本府があったともされる。また九州では磐井の乱があり、継体天皇が筑紫の君磐井を討伐したとされる。

 河内春人はこの時代を丁寧に解説してくれる。しかし、6世紀は文献資料が乏しく、確定的なことは分からない。オホト王が選ばれて即位したあたりの経緯はそれなりに整理されているが、20年間ヤマトに入れなかった理由ははっきりしなかった。

 また仁徳天皇の血統が途切れたこともかなり事実に近かったのではないか。河内春人はそのあたりぼかしているけれども。

 文献資料の不足から隔靴掻痒の印象は免れなかったが、そこまで要求するのは酷というものだろう。