田中克彦『ことばの道草』を読む

 田中克彦『ことばの道草』(筑摩選書)を読む。期待以上の面白さ。田中克彦言語学者、専門はモンゴル語だったが、言語学一般からクレオール語ノモンハン事件など守備範囲は広い。本書はここ2年間に書いたエッセイをまとめたもの。

 ゲオルク・フォン・デア・ガーベレンツの著書に、日本語の数詞が母音の交替によって倍加されるという指摘がある。ひとつのfitoはiからuに入れ替える(fito→futa)と2倍の2になり、ミはiをuに入れ替える(mi→mu)ことによって2倍の6になり、4はoをaに入れ替える(yo→ya)によって2倍の8になる。この田中克彦が「ヒフミの倍加論」と名付けた法則は荻生徂徠の随筆集に由来する。それをガーベレンツに教えたのは上田万年だったに違いないと田中は書いた。それに長田俊樹が激しく反応した。上田万年ではなく何人もの外国人だったとの想像をくだしているという。田中は長田俊樹とは一度会ったことがある。コセリウの訳書を進呈し、後日コセリウはどうでしたかと電話で訪ねたところ、「何を言いたいのか、さっぱりわからない」本だと言われた。この人に会って話をしたところ、理論的な内容の読書の経験のうすい人だなあと直感した。それで長田氏が理解するには無理な本だと思い、送り返してもらった。

 また、チェコ語千野栄一との交流?が書かれている。ロシア語購読の授業で会った千野について、スターリンの原文を千野が音読すると、田中は千野がほんとにきちっとロシア語をやったひとなのかを疑った。後日、千野が主管のようになって亀井孝河野六郎両先生を誘い、3人の監修で『言語学大辞典』(三省堂)の刊行を始めたとき、亀井が「社会言語学」は田中に書かせろと注文すると、千野はとことん反対したという。というより、この「辞典」に田中は一歩も入れないという原則を熱く説いたらしい。千野があんなに君を憎んでいるのは、よほど君がえらいからなんだ、というのが亀井先生の言葉だった。

 日本共産党宮本顕治が「トロッキー」と繰り返しているのを聞いて、これは本来「トロツキー」のことであって、宮本顕治はロシア語のみならず他のヨーロッパ語で、トロツキーの名の現れる本や雑誌を読んだことがないということが分かってしまった。彼がトロツキーについての二流、三流の論文しか読んでいないんだとバレてしまう。

 このように田中は歯に衣着せぬ物言いを頻発する。だから千野栄一などの反感を買ってしまう。しかし読者としては面白い。それ以前に田中の人並み外れた教養が読者を圧倒する。田中の著書はどれを読んでも外れがない。